民族時報 第830号(97.9.11)

 

国内資料

 

韓総連脱退と監獄行き

 

徐俊植(人権運動サランバン代表)

 

 警察官の大学常駐、令状のない逮捕、日常化する銃器使用、そして脅迫と懐柔による「脱退」強要……「魔女狩り」の嵐が大学街を襲っている。

 南総連議長が「韓総連の代議員として、これ以上活動しない」という自筆脱退書を出し、南総連傘下の祖国統一委員会委員長も脱退書を出したと新聞は報道した。

暴力容認し屈服するか

 韓総連を「利敵団体」と規定して、「解体させる」というとんでもない発想のもと、左翼事犯合同捜査本部が「投降期限」と定めた七月三十一日まで、二百六の韓総連加入大学のうち百三十二大学の総学生会と、一千六百五十八人の韓総連中央代議員のうち一千百二十四人が韓総連を脱退したという。これは現代の法治国家では類例のない公安当局の暴挙を、そして、その暴挙に直面している学生とわが国の民主主義の試練を雄弁に物語っている。

 韓総連を脱退するかしないかの問題は、もちろん学生個々人の決断の問題だ。しかしわたしは、学生個々人が「自由な個人」という理由で、韓総連を思いのままに脱退する自由を持っているのではないと思う。ご飯を食べ、冗談を言いあうわれわれの日常生活すらも、よくよく考えてみれば、この世の中と完全に独立した個人事であるわけではない。まして「韓総連脱退」が個人の決断で終わるような単純な問題でないのは、あまりにも明らかだ。公安機関の「韓総連つぶし」は、民主主義の初歩的な教科書さえも根こそぎ否定しながら、学生運動はもちろん、民主主義それ自体に対する深刻な脅威として迫ってきている。

 学生の韓総連大挙脱退は、さまざまな意味から、われわれの人権と民主主義の将来に暗雲を投げかけている。

 まず指摘しなければならないのは、脱退が民主主義の危機を促進させるという点だ。支配勢力が民主主義を抹殺するためによく試みる行為のひとつが、自分に最も敵対的な勢力を大衆から孤立、抹殺するために、その「敵」を陰湿で危険なイメージに再定義する行為だ。「韓総連」という言葉は、まさに「左傾容共」「暴力と殺人」「反道徳」などを思い浮かばせる一種の嫌悪語として「再定義」されている。

 言語は決して単純なものではなく、政治的道具だ。こうした種類の嫌悪語は多くの場合、支配勢力の不道徳性や非人道性、あるいは反民主性を正当化させるために機能するものだ。

 この事実を学生が自覚するなら、彼らは支配勢力が「再定義」した言語を、再びもとの意味に「再再定義」することに全力を傾けなければならない。この仕事がどんなに過酷な重荷であっても、一次的には、嫌悪語として攻撃を受けている当事者の任務にほかならない。脱退は、この「再再定義」のための努力の放棄と、自らに対する知的背信を意味し、支配勢力の正当化を容認してやることになり、民主主義の危機を意味する。

 次に脱退は、韓総連を「利敵団体」と規定して「解体させる」という公安勢力の無謀な計画に、明らかに助けを与えている。検察は韓総連中央代議員一千六百五十八人のうち、一千百二十四人が脱退したと発表しながら、すでに拘束された四十八人を除外した四百八十六人を司法処理するという方針を明らかにした。

 したがって一千百二十四人の脱退は、これを拒否する四百八十六人をより一層の孤立と迫害のなかに追い込む役割を担っているわけだ。脱退者を司法処理しないのは、公安検察が温情を施すというものではなく、一千六百五十八人という数を根こそぎ司法処理するのが怖いためだ、という事実を知らなければならない。事実、民主的な選挙を通して結成された韓総連という組織を壊滅させるという前近代的な発想は、学生の大挙脱退という事態がなければ、絶対に実現されることのない夢であるのだ。脱退はまた、何よりも暴力の容認であり、暴力に対する屈服だ。

 学生が、韓総連指導部のさまざまな「過誤」を脱退理由として挙げている。そこである学生は、自らの脱退が韓総連指導部の非大衆的な暴力路線に対する幻滅であって、権力の暴力に対する屈服ではないというかもしれない。しかし、明らかに自己欺まんのにおいがする。

暴力に耐え若さを守れ

 韓総連指導部が本当に深刻な批判を受けなければならないことがあるぐらいは、わたしも知っている。そして、その理由のためにいくらでも脱退することもできるだろう。しかしなぜ、よりによって今なのか。道徳性が地に落ちた国家権力が大統領選挙を前にして、窮地から抜け出すために韓総連をいけにえにして、攻勢をかけている今なのか。公安勢力や言論などが一斉に騒ぎ立て、韓総連にじゅうたん爆撃を加えながら、脱退しなければ全員拘束するという殺伐とした雰囲気がのさばる、その今なのか。脱退が権力の暴力に対する屈服だという事実を、だれよりもよく知っているのは脱退する本人であるはずだ。

 脱退が暴力に対する屈服を意味するかぎり、絶対に脱退してはいけない。大量脱退に満足している公安勢力は、暴力を「やはり使ってみるだけの」手段として再認識するだろう。そのうえ、国家権力の暴力の前に人間はどのみち無力な存在にほかならない、という敗北主義を、わが社会にまん延させるだろう。さらに、わが身を投げうつ正義の主張を、戯画化するだろう。

 正義と進歩に対する希望と、人間に対する信頼を大切にして生きていく人々であれば、一生に一度ぐらいは孤立無援の状況に投げ出されてしまう時があるものだ。そうしたなかで、人々は無意識に希望と信頼を投げ捨てるための言い訳をさがし求めるものだ。正義と進歩に対する希望と、人間に対する信頼を投げ捨てるのに、プラグマチズム(実用主義)ほど気楽な逃避所はない。「韓総連?名前を変えてしまえばいいじゃないか」「監獄に入れられてしまうよりは、何でもしなければならないじゃないか」。

 とんでもない話だ。あえて言わせてもらえば、いま学生ができることの一つとして、脱退を拒否して韓総連を「再再定義」するほど、大きな意味を持つ闘争はない。権力の暴力に屈せず、耐えぬいて進んで監獄に行くことで、精神の若さを守り抜くことほど、重要なことはない。