民族時報 第982号(02.08.11)


【資料】

    韓国戦争前後の民間人虐殺現場を行くB

 麗順事件……、虐殺で建てた国・大韓民国

  四八年十月十九日、(全南)麗水に駐屯していた国防警備隊十四連隊は「済州四・三事件」に対する鎮圧命令を拒否してほう起した。彼らはただちに麗水を接収し、二十日には順天を占領した後、求礼、谷城、宝城方面に散らばり、二十一日以後に智里山に入った。

  一方、麗水に残っていた十四連隊の一部は政府軍と交戦したが、白雲山と宝城郡筏橋方面へ退却し、やはり智里山に入った。十四連隊の主力が去った麗水は、二十七日に政府軍によって完全に鎮圧され、以後、政府軍は民間人に対する無差別虐殺を行って国家の綱紀を建てた。いわゆる「反乱治下」の民間人は、反乱が鎮圧されると平和の代わりに虐殺という贈り物を受けたのだ。

  求礼の遺族会の朴チャングン会長は、四八年十一月十八日に憲兵に連行されたアボジ(父)の最期の姿を生々しく記憶していた。麗順事件がぼっ発してちょうど一か月目。当時初等学校六年生だった朴会長は村で遊んでいたが、アボジを捜していた憲兵たちを家まで案内した。憲兵は「友人のことで調査することがある」と、アボジを求礼警察署まで連れていった。

  ちょうどその日の夜、求礼警察署ではパルチザンの襲撃を受けた。何時間かの交戦の後、パルチザンは引き上げたが、警察の怒りは収まらなかった。この時、留置場に捕らわれていた民間人七十二人が、警察の腹いせの対象になった。警察の庭に連れ出され、その場で銃殺されたのだ。彼らはパルチザンの襲撃と何の関連もなかったし、調査も終わっていなかった。朴会長のアボジもこの時、無念にも殺された。

  銃殺後、警察は彼らの遺体を警察署の裏山に埋めた。朴会長は明くる年の春、埋葬地に行ったが、すでに遺体は腐敗が進んで収容自体が不可能だったという。そのうちに埋葬地にはアカシアの木が生い茂り、沈黙を強要されてきた五十余年の歴史と忘れ去られている虐殺の記憶もまた、固まってしまった。

  麗水地域社会研究所の朴ジョンギル・麗順事件調査研究チ−ム長は、「十四連隊の『反乱』は十月二十七日に終わるが、麗順(虐殺)事件はその後に始まった」とし、麗水、順天、光陽、求礼、谷城、宝城などの地域で「虐殺は国軍が派遣された『面単位』で広範囲に発生した」と明らかにした。

  求礼警察署の虐殺事件を含め、麗水地域社会研究所が推定する麗順事件関連の死亡者数は現在、一万人に及ぶ。これは当時の事件関連地域人口の八分の一に該当する。だが一万人のうち、麗順ほう起当時に十四連隊によって虐殺された数は、せいぜい三百人程度だ。残りの九五%が国軍と警察によって行われた民間人虐殺だ。

  だが麗水遺族会の金サンテ会長の証言は、これらの死がどれほど許しがたいものか、よく表している。

  金会長の伯父さんは麗順事件の鎮圧直後、政府軍に捕まった。十四連隊がほう起に成功した後、麗水市内で人民裁判をする様子をカメラに収めたという理由だ。左翼でないなら、人民裁判の様子を写したりしないというのだ。

  また麗順事件の時に釜山に逃げ、何か月か後に帰ってきた金会長のアボジも、麗順事件の犠牲者だった。警察は金会長のアボジに「なぜ逃げたのか」と追及し、左翼人士の思想転向のために作られた保導連盟に名前を入れてしまった。しかしこれが禍根となり、金会長のアボジは韓国戦争初期、麗水の海に投げ込まれた。当時、そこでは百五十人程度の保導連盟員が集団虐殺にあったという。

  麗順事件は大韓民国政府樹立後、約二か月が過ぎた時点で発生したほう起として、対応次第では新生政府の国家運営能力を認められ、国際社会から独立した国として承認を受けられる事件だった。そのため、済州島民に対する鎮圧命令の正当性を問う前に、十四連隊のほう起は「反乱」と規定されて迅速に鎮圧された。

  鎮圧後、左翼との関連性が少しでも疑われる国民は、すべて摘出されて虐殺された。

  さらには麗順事件を契機に、その年の十二月一日に制定された国家保安法は、このような違法な公権力の行使に合法性まで付与することになった。国家保安法は以後、多くの人権じゅうりんを引き起こし、独裁体制が強化された。「大韓民国」は麗順事件を虐殺で鎮圧して建てられ、思想を問うことで「立派に」維持されてきたのだ。 (つづく)


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