INDEX [はじめに][第1章][第2章][第3章][第4章][第5章][第6章][むすび]


〒101-0025
東京都千代田区神田佐久間町3-21 相原ビル4F
℡ 03-3862-6881/fax 03-3862-6882
E-MAIL chuo@korea-htr.org
「わが祖国統一論」第3章

 第3章

第三章 再統一の民族史的当為性

 第二章では、半世紀にわたる分断時代を生きてきながらも、血筋と言語の共通性に基づいてわが民族は変わりなく一つであり、祖国も一つであることを論理的次元で考察し確認した。この章ではそれを民族史の流れのなかから再検討し、数千年のあいだ単一民族として生きてきたわれわれが、今日にいたって二つに分かれなければならない内的必然性がないことを論証したい。言いかえれば、悠久の歳月を一つの民族として生きてきたわれわれが、二十世紀の半ばにきて二つに分かれたのは民族史の伝統に反する現象であり、再び一つになることが逆うことのできない歴史的必然であることを明らかにしたい。

 したがって、「分断の克服と統一」という今日の切迫した民族的課題を中心におき、五千年のわが民族史のなかで近代以前の歴史のいくつかの側面を重点的に扱い、主に八・一五後の歴史、分断時代の考察に重きをおく。そして一時的な分断の克服の当為性だけではなく、統一問題に臨む基本的立場と姿勢、統一の方法論的指針を導き出したいと思う。

 第一節 民族的統合の成立

   自主、自尊の歴史

 民族史とは、民族の生活が展開されてきた歴史、民族の形成と統合と発展、そしてこれらと関連する政治、経済、文化など各分野で民族の構成員が知恵をしばり、汗を流しながら創造し建設してきた歴史である。したがって、それは民族運動史であるといえる。民族によって生活を開拓してきた歴史はおのおの違う。わが民族についていえば、他人に束縛されることに反対して自らの力で自己の生活を営み、自らの運命を開拓してきた点が特徴といえる。歴史の創成期から、わが民族は外部勢力に屈従し隷属して暮らしたことがない。自らの力で民族解放と民族和解をなし遂げ統一を達成しなければならない今日、あらためてわが民族史を振り返り、まず明らかにし確認すべき問題はまさにこの点である。

 しかし、これまでわが民族史に加えられた歪曲は少なくない。わが民族が歩んできた歴史はことのほか停滞し立ち後れた歴史に、周辺大国との関係でつねにそれらの国の侵略と支配に苦しめられ、またそれらの国の影響によって目覚め前進してきた歴史にねじ曲げられて、記録されてきた。古い例として、史記の朝鮮列伝を叙述した中国の大国主義史家・司馬遷が挙げられるし、そのような大国主義的記録に無批判的に追従した高麗の事大主義史家・金富軾もいる。また近くは日帝の植民地史家らと、彼らに追従した御用史家らが、いろいろな面でわが民族史を歪曲した。親日史家・崔南善のような人物は、初めからわが民族の歴史を度重なる内憂外患のなかで悲しみと苦痛でつづられた悲哀の歴史として描いたのである。だから、このような歪曲をただし、自主と自尊で貫かれたわが民族史の真の姿を確認する作業から始める必要がある。

 まず問題にしなければならないのは、わが民族が有史時代に入るその初めに加えられた歪曲とねつ造である。目帝植民史家らは檀君朝鮮を虚構的なことと否定し、箕子という中国の殷の人が来て政治を行うことによって、わが国の古代社会が始まるという「箕子朝鮮説」をつくりあげた。これは中国の植民地としてわが民族の歴史が始まったという強弁である。

 天から降臨した桓雄(ファンウン)が神令によって熊女(ウンニョ)に受胎させて男子を生ませ、その息子檀君が紀元前二三三三年に古朝鮮を開国したわが国の建国説話は、神話のようにいわれているがそうとばかりはいえない。それは支配者に対する神格化とトーテミズムが支配していた古代社会において、原始共同体が崩壊し国家権力が形成されはじめた当時の現実を反映したものと理解しなければならない。どの国の建国伝説であれ、いったい神話的に粉飾されていないものがあるだろうか。日本の場合でも、古事記に出てくる天照大神の説話はいうまでもなく、団を建てたとする神武天皇にまつわる説話も、荒唐無稽にすぎないことを指摘しておく必要がある。

 かつて中国の黄河流域に人びとの群れが定着して文明を築いているとき、海を隔てた遠い日本ならいざ知らず、大陸と陸続きで、温暖な気候に恵まれて山紫水明な韓半島一帯に開けた人びとがいて、国を建てたという事実を否定するのは理不尽な話である。

 箕子朝鮮説についていうならば、それは日帝の植民史家らが班固の漢書の記録を悪用してつくりだした虚構にすぎない。箕子の墓が中国の梁の国の蒙県にあるという説もあり、いずれにしても箕子朝鮮説が偽りであることは、内外の史家らによって確認されて久しい。

 次に、漢四郡説についても再確認し、評価しなおさなければならない。漢四郡説とは紀元前一〇九年、漢の武帝が古朝鮮への大規模な武力信攻を行って衛満(ウィマン)朝鮮を成ぼし、その地域を属領化させる目的で四つの郡県を設置したという説である。これが楽浪(ラクラン)、真番(ジンボン)、臨屯(イムドン)、玄菟(ヒョンド)だが、この四郡を通じて漢の古朝鮮支配がおよそ一世紀近く続いたというのである。

 この漢四郡説は、司馬遷の史記の朝鮮列伝に記録されているものだが、高麗の金富軾が三国史記を編纂する際、そのまま認めたものである。それを日帝の植民史家らはさらに誇張して叙述したのである。たとえば楽浪郡の都は-??-氵貝(さんずいに貝で1文字)水(ペス)をはさんで北側に位置しており、その氵貝水はいまの大同江で、したがって楽浪郡の行政の中心地がいまのピョンヤンであったという。

 もしこの漢四郡説を肯定すれば、わが国は紀元前に隣国の属地になっていたという民族の恥辱を認めたことになる。衛満朝鮮と漢とのあいだで数回にわたって武力衝突があったことは事実である。しかし、司馬遷はこの事実を漢の立場から叙述したのであって、朝鮮の立場にたって叙述したものではなく、またそうできるはずもない。多くの史家の考証によって「氵貝水=大同江」説は否定されて久しく、漢書の『地理誌』に氵貝水が東南方向の海へ流れいったとされている記録と、その他の資料から推し量って、遼東半島の西側、山海関の近くにあった大遼水と小遼水が合流する部分が、まさに氵貝水だと主張する学者もいる。また朝鮮列伝の原文を詳しく検討すれば、四郡設置どころか四郡の名前さえなく、漢の武帝の陸海軍が朝鮮軍の反撃にあって惨敗したと記録されているという説もある。(1)

 以上のような歴史の歪曲をただしたうえで、われわれはわが祖先がはるか昔から韓半島を含む北東アジア一帯に根を下ろし、外部からのどのような支配も拒否し排撃しながら、自主的な生活の礎を築いてきたことを確認することができる。

 考古学界の考証によると、韓半島一帯には約五十万年前から旧石器人が登場し、原始社会の正常な変化と発展の道を歩んできたのであり、この旧石器人はもとから韓半島に作んでいた人びとであったという。京畿道漣川郡全谷里の遺跡から出土した握り斧や打截器などは、二十万年前の前期旧石器時代のものと証明され、数年前、華川ダムの水を抜いたとき姿を表した江原道揚口郡上舞龍里、軍糧里、公須里の一帯で発掘された遺物は、前期旧石器時代から後期旧石器時代までのものと推定されている。

 北韓の学者らが、八〇年から二年間にわたってピョンヤン郊外の祥原郡で行った研究の成果が、最近、日本と、日本を経由して韓国に伝わり、学界の注目をひいた。北韓の学者は、祥原郡にある洞窟から頭骨や下顎骨など原人化石三十数点と、土器など四十数点、そして八千二百数点の動物化石を発見したという。これらの化石は鑑定の結果、この地域に住んでいた人類は四十万年~五十万年前にあたると推定され、わが国で初めて発見された原人とみられている。

 五十万年前の地球上には、このような人間の集団が住んでいた場所はいくつかしかなかった。今日まで知られている原人としては北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール原人とローデシア原人などがあるだけである。祥原原人の発見は韓半島が人類発祥地の一つであることを物語っている。しかし、この旧石器人、原人が、今現在のわが民族の直接的な祖先であるとはいえない。旧石器時代はまだ人類の種族関係を語りにくいきわめて原始的な段階であって、これは人びとが群婚生活をしていたためである。

 今日のわが民族の根幹を成す原朝鮮人が形成されたのは、新石器時代以後のことである。この原朝鮮人の形成過程について、外部から移住してきたとみる見解が韓国の史学界に少なくない。趙芝薫氏は「原朝鮮人は人類学的にはアルタイ族の一分派である。そのアルタイ族の分派の韓半島への移住が数回にわたって繰り返され、そのような移住年代の前後差と、多分に海洋系の要素をもつ南部の先住民または周辺人種との混合の度合によって、この原朝鮮人は数多くの分化をもたらした」と述べている。(2)この見解を要約すれば原朝鮮人はアルタイ族に属するが、北方から移住してきたアルタイ系先住民とともに、部分的ではあるが南方からきた海洋系の南部先住民によって成立したということになる。

 これは不正確であるのみならず、今日の時点からみるとき危険な主張でもある。今日、南北に分かれている民族の二つの部分は、もとから異なった分派であったと理解されてしまうからである。

 韓半島一帯で発掘された出土品についての研究資料によると、原朝鮮人はよそから移動してきたのではなくもとから土着していた住民であり、したがってその分派もいくつかあるのではなく一つであったことが確証されている。人類学的指標では原朝鮮人は当時、周辺地域に住んでいた住民とは画然と区別され、現在の韓国人と類似性の多いわが民族の直接的な先祖になるという。すなわち顔形、そのなかでも頭長幅示教をはじめ多くの指標で、原朝鮮人は現代韓国人の類形の平均指標と比較するとき、標準偏差値内に入るが、当時の中国、シベリア、日本などの住民と比較するとき、一部指標は標準偏差値内に入るがそのほかの指標は標準偏差を越えるという。これは、新石器時代にすでに韓半島とその北部地方はわが先祖が定着して暮らしていた地域であり、この地域の共通性に基づいて血筋の共通性が杉成されていたことを物語っている。

 したがって、この地域に住んでいた原朝鮮人の後裔は単一民族であった。-??-滅(上に3点のふたが必要)(イエ)族、貊(メク)族、韓(ハン)族と呼ばれるわが国の北部、東部、南部地域の住民のあいだには、生体計測値と指紋、血清学的特長など人種指標に差異のないことが知られている。当時、彼らのあいだでは人種的な差異によってではなく親縁関係が支配していたということである。その後、新羅、百済、高句魔のあいだでも血縁関係の共通性が椎持されていた。このような事実は、韓半島とその北部地域に古朝鮮、扶余(プヨ)、辰(ジン)国などわが先祖の古代国家が形成され、それが三国に引き継がれ発展してきたわが民族の領土であったことを実証するものである。その後、数千年にわたる永い歴史の過程で外敵との戦いが頻発し、国内深く侵入してきた外敵の大軍を撃退した困難な戦いも幾度かあった。李朝五代王・文宗時代に編纂された『東国兵鑑』によれば、漢の武帝以来、高麗末期にいたるまでの約千五百年のあいだに、わが国は三十数回も外敵の大現場な侵略を受けている。このように度重なる外敵の攻撃を受けるたびに、わが先祖は外敵を撃退して民族の尊厳を守りとおし、他地域から移動してきた民族と混血することなく、血筋の単一性を固く守ったのであった。これがまさに自主の歴史であり、自尊の歴史である。

 同じ血筋をひいているわが民族は、広い地域にまたがって暮らしながらも同じ言葉を使っていた。同じ血筋をもち、同じ言語を使用する人たちが、同じ文化を創造するようになるのは必然なことである。

 考古学的資料は、新石器時代の韓半島をはじめ北東アジアの広い地域に住んでいた住民が、農業を営みながら独特の文化を創造した事実を証明している。新石器時代のこの地域文化の様相は、周辺の他地域の文化とは確然と区別された。

 そのような特徴を鮮やかに示してくれるのが土器文化である。新石器時代にこの地域で広く使用された土器は、形と色、装飾文様において、周辺の他地域にはない褐色の刻文文様土器であった。当時、中国の黄河流域ではさまざまな色彩で文様を描いた彩紋土砧や黒色土器が流行し、北部シベリア地方では櫛目文様土器が狩猟族の狩りや漁穫りに関連して広く使用された。

 この櫛目文様土器を使用する古アジア族が、三度もわが国の地域に移動して互いに融合、同化し、今日のわが民族形成の母体になったという説があるが、これもまた、アルタイ族が移動してきたという主張と同じように事実と合致しない説である。わが国の各地で発掘された土器遺物は、それが櫛目文様のものではなく、褐色の刻文文様の器であったことを示している。

  統一新羅の再評価、高麗建国の民族史的位置

 はやくから同一地域で同じ血筋、同じ言語で暮らしてきたわが民族は、古代社会ではいくつかの国に分かれていたが、一つになろうとする志向を強くもっていた。三国時代になって高句麗と百済、新羅の住民のあいだには同民族意識が強く働き、それは遠からず三国を一つに統合する必然性を示していた。このような時期に新羅による三国統一がなされた。新羅による三国統一を統一的な民族国家成立の出発点とみるのは、従来からある一般的な見解であるばかりでなく、今日でも韓国史学界で通説になっている。趙芝薫氏は次のように述べている。「今日の韓民族形成の基礎がつくられたのは三国時代であり、人種的にも文化的にも一つになった最初の血筋は統一新羅に始まる。そのために、統一新羅はわが民族と文化の古典時代として登場するのである」。(3)

 しかし、新羅による三国統一の不完全性を強調する見解もあり、その意味を否定的にとらえる見解もある。

 民衆を歴史の主体とみる民衆史観の見地から、韓国史を新たに見直そうと試みた史学者らは、新羅が三国を統一し、唐の勢力を韓半島から追い出すことによって、韓半島が中国大陸へ編入されるのを阻止して民族国家としての基礎を築いたものの、その不完全性は領土の縮小と潮海の建国という形で現れたと強調している(4)最近、韓国史編纂委員会のある学者は、統一新羅は部分的な領土統合と文化的統合にひとまず成功し、単一民族国家の基盤を整えたが、決定的な社会的、政治的統合に失敗した点をあげ、新羅が三国を統合して最初の民族統一国家を形成したという通説に反論しながら、真の民族統合は高麗から始まると主張している。

 民族運動を民族の自由な発展をめざす民族自主運動として把握し、民族史を比族運動の歴史として理解する見地からみれば、明らかに「統一新羅」は肯定的にではなく、不定的に再評価しなければならない問題点を含んでいる。

 それは第一に、新羅が百済と高句麗を撃破し三国を統一したというけれども、新羅は三国が占めていた広大な領土と住民のうち、ごく一部だけしか領有できなかった点である。

 高句麗が崩壊した後、新羅は大同江以南の地だけを領有し、その数倍になる大同江以北の高句麗の領土を失うことになった。国土の一部だけを手に入れ大部分を失った「統一」が、果たして統一といえるものだろうか。

 大同江以北の高句麗の領土は、唐がピョンヤンに設置した安東郡護府の管轄に入り、形式上では唐の支配を受けていたようにみられたが、実際には不安定な状況にあった。高句麗遺民ら絶え間ない抵抗によって、唐は確固とした支配力を行使することができない状態にあったのである。そのようななかで、遂に高句麗の将軍であった大祚栄の指揮のもと、高句麗遺民らが松花江流域の広大な平原を中心にした高句麗の以前の領土に勃海国を建てたのであった。渤海国は後に「海東盛国」と称しながら、二百年間も存続した。韓国史の叙述で、渤海と新羅が並立していた時期を南北国時代というのは、新羅による三国統一が完全な統一ではなく、三国鼎立から二国分立へと勢力圏が再編された状況を認めたものといえる。

 第二に、太宗武烈王・金春秋に代表される新羅の支配層が、果たして三国を統一する確固とした志向をもち、また後進勢力の新羅に三国を統一する力があっただろうかという問題である。

 新羅と手を結び百済と高句麗を滅亡させた後、唐はピョンヤンに設置した安東都護府を通じて韓半島全域を属領化しようと画策した。そのため互いに手を結んでいた新羅と唐のあいだに葛藤が生まれ、抗争が起きた。このとき、高句麗と百済の遺民らが新羅に合勢して唐への抵抗に立ち上がった。新羅に対しては自国を滅亡させた恨みがあったが、外敵の唐との対立関係では、新羅は同民族であるという意識が働かなかったならば、そのような連合闘争は成立しなかったはずである。

 このとき、唐を高句麗の以前の領土から駆逐し、三国の領土と住民を統合できる機会と可能性が熟していた。後に高句麗遺民だけの力で唐を追い出し、渤海国を建てることができたのをみれば、ましてや新羅が百済と高句麗の遺民らと提携を強め、積極的な闘争を展開したならば、三国の完全な統一は十分に可能な問題であった。しかし、統一新羅は唐と討決するにあたって、三国の人びととの融和政策を最優先課題にすべきであったにもかかわらず、高句麗や百済の遺民に対する身分的差別を強要し、閉鎖的で排他的な政策を固守したのであった。(6)これは新羅の支配層が、三国統一ではなく大同江以南の平定で満足する欲望しか持っていなかったことを物語ってくれる。

 第三に、唐を引き入れ百済と高句麗を滅亡させた新羅の支配層の行為は、わが民族史において同民族に反対し外部勢力を引き入れた最初の出来事であり、その後の民族史の流れに否定的な影響を与えたものとして厳しい指弾を受けるべきことである。

 かつて東夷族と呼びながら、中国の人々が礼賛し崇拝した貊族と韓族は、発達した農耕文化の経済力を基盤にして青銅器文化を築き、韓半島から松花江と遼河流域をへて、遠く中国関内にまで特有の文化圏を形成し、古朝鮮や扶余、辰国を建てた。

 その後、衛満朝鮮の対漢抗争、高句麗の対隋、唐との抗争が示しているように、強大な外敵の断え間ない侵略から国土を守り抜き、領土深く侵入させなかったことが、三国時代までのわが民族史の真の姿なのである。一説によれば、百済が全盛時代に中国の遼西地方にまで進出し支配したといわれている。(7)

 ところが、新羅の支配層はこうした民族史の貴い伝統を破り、外部勢力を引き入れて白馬江岸にそそり立つ落花岩の悲劇を生じさせた。(8)どの角度からみても、同民族に反対して外部勢力を引き入れた金春秋や金庚信の行為は、民族の栄光ではなく民族の恥辱なのである。彼らがわが民族史に流し込んだ泥水は、高麗時代の支配層の元への服従、李氏朝鮮の明や清に対する屈従関係につながり、李朝末期の封建支配層の無分別な事大主義の濁流となって、遂にわが民族史上初めての民族自主権喪失の時代、日本による植民地化時代を招くようになったのである。

 新羅による「三国統一」は否定的に評価されなければならず、統一ではなく国土と住民を外部勢力に引き渡した行為として厳しく批判されなければならない問題である。

 三国統一への志向を強くもっていたのは新羅ではなく、高句震であったとみるのがより正しい見解であろう。はやくから松花江流域に国を建てた後、北方からの外敵の脅威を牽制しながら、絶えず南下政策をとっていたことは、高句麗が三国統一を国の政策にしていたことを物語っている。

 紀元前三七年ごろ、扶余から南下した朱蒙は高句麗を建国し、初代王=東明聖王になった。建国後、高句麗の力は急速に成長し、漢を攻撃して絶えず領土を拡張していった。その後、十六代王の故国原王の代に、西北からは中国の前燕・慕容氏の攻撃を受けて先王の墓を破壊され、南からは百済の侵攻を受けて王が戦死するという辱めを受けた。しかし三九一年、十九代王の広開土王が即位するや、その年に百済を攻めてその気勢をくじいた後、三九五年には矛先を北に向け、高句麗の北方を悩ましていた契丹の一部族であるビリョを撃退して後患を絶った。そして、再び南の百済を攻撃して降伏させ、臨津江の以北地域を掌握した。その後、北魏と後燕を攻撃して遼東、遼西地域を確保し、故国原王の時代にうけた恨みを晴らして、かつて漢に奪われた古朝鮮のもとの領土を取り戻した。

 広開土王の後をついだ長寿王は、それまで通溝にあった首都を臨時に江界に移したが、四二七年にピョンヤン遷都を断行した。その後、長寿王は引き続き南下政策をとり、漢江全域を含め竹嶺(現在の慶尚北道栄州郡と忠清北道丹陽郡に所在する峠)と鳥嶺(慶尚北道聞慶郡に所在する峠)一帯から南陽湾を結ぶ線まで領土を拡張した。こうして高句麗は韓半島のほとんどを占め、百済と新羅は一部の地域に押し込まれた。高句麗による三国統一は時間の問題であった。その後、高句麗の三国統一をめざす政策は羅唐連合勢力によって阻止され破綻してしまったが、高句魔のこの志向は九一八年の高麗建国によって完成する。

 新羅の支配権が衰退し、国土が再び後三国に分裂して内紛が起きていた時期に、この後三国を統一し一つの国家を建てた人物が松岳(開城)の豪族・王建である。王建は建国にあたって高句麗の伝統を継承するという意味から国名を高麗とし、開城に都を定めた。このころ、渤海国が滅びその遺民が高麗に投降することによって、「新羅-潮海」と表現されていた南北国時代は終わり、統一された民族国家の出現をみることになった。

 韓国の一部の史家の見解によれば、高麗の建国は南北国時代が南朝中心に統一されたものだが、それは部分的統一にすぎず、領土においても、種族的混合においても、最終的に地縁・血縁的または文化的に今日の韓民族の典型を形成したのは、高麗末期の雙城収複と、李朗・世宗時代の六鎮と四郡の開拓とに連結されるとみている。そうであれば、新羅による三国統一を民族統一の古典時代とみるのはなおさら話しにならない。

 わが国の北部国境が豆満江や鴨緑江上流にまで伸びて、今日のように決まったのは、高麗末期から李朝初めのことであるが、その出発点は高麗建国に始まるとみるのが正しい。建国後、高麗の主な関心は北方の失地回復にあった。李成桂の背信的な威化島回軍によって挫折してしまったが、高麗の北方失地回復政策は高度が滅亡する直前まで一貫した志向であった。したがって、わが民族史で高麗建国が占める位置は、わが民族が一つになろうとする民族的志向が完成された時点として、この時からわが民族は一つの国家を形成し、単一民族、単一同家として完全な姿を整えるようになったとみるべきである。

   高麗建国以後の千年史、その基本特徴

 歴史には強大民族に征服され滅亡したか、あるいは同化されて泡のように消えてしまった民族もあり、また存在が薄れてその残影だけを残している民族も少なくない。

 卑近な例としては、中国東北部の女真族を挙げることができる。女真族は元来、中国東北部と沿海州一帯に暮らしていたツングース系の部族で、漢の時代には把婁、後魏の時代には勿吉、隋・唐の時代には靺鞨といい、渤海国の滅亡後は遼に属したが、五代と宋の時代にきては女真として現れた。しかし、統一できずに分散し、その中の一分派の首長・阿骨打が一一一五年に諸部族を統合して金を建国した。明の時代にきて女真は再び三つに分裂し、そのうちの一分派から清の太祖が出て全中国を支配した。このように女真族はその歴史が比較的長いが、一つの民族として発展、完成されないまま、結局、漢族に同化されてしまった。今日の満州族はその後裔だといわれているが、女真族としては完全に衰退してしまった。

 また一時発達した文明を誇りながらも、外部勢力に征服されて往年の威力を失った民族として、インカ族を挙げることができる。九世紀の初め、中南米のアンデス山脈東部に現れたインカ族は、強大な帝国を打ち立て一帯を支配した。インカの権勢があまりにも絶大であったため、インカの命令ならば飛ぶ鳥でさえ翼を止めたという伝説さえある。

 十二世紀初め、海抜四千メートルのクスコ高原に移動してからの四百年問は、インカ帝国の黄金文化が絶頂に達した時期であった。インカの婦人は十本の指に黄金の指輪をはめるほど、物質文明は豊饒を誇った。この点でインカをしのぐ国はなかったのである。

 しかし、一五三三年に、百六人の歩兵と六十二人の騎兵で編成されたスペインの征服者ピサロによって、インカ帝国の幕は下ろされてしまった。インカの古都クスコを中心に、現在、五万人余りのインカの後裔が残り、新石器時代を連想させる原始的な生活を営みながら、昔の帝国の痕跡をみせているだけだ。

 歴史上にはまた、強大国の分割統治によってずたずたに切られ、四分五裂の悲運をなめた民族もまれではない。そうした例はアジアにもヨーロッパにも、そのほかの大陸にもある。

 韓半島は大陸と海洋にはさまれた地政学的特性によって、高麗建国後も外敵の侵略を頻繁に受けなければならなかった。だが、どのように厳しい逆境のなかでも民族の統一を固く保ち、民族の命脈を連綿と継いできたのが、高麗建国後千年のわが民族史の基本特徴であり、わが民族の誇りといわなければならない。

 では、わが民族史が示しているこのような基本特徴は、何に由来するものだろうか。それはなによりも、単一民族としてのわが民族の悠久の伝統と、それに基づく強い団結力によるものといわなければならない。言いかえれば、わが民族全体が外敵の奴隷になったことがなく、わが民族が分裂したこともなかったということである。

 かつて明の将軍・李如松と豊臣秀吉とのあいだで、韓半島を南北に分割する陰謀があったという説がある。また十九世紀末から二十世紀の初めにかけ、日本とロシアが韓半島に触手を伸ばしながら、衝突を避けるための妥協策として北緯三八度線または三九度線を境に、韓半島の南北をそれぞれの勢力圏に分割しようとする秘密交渉があったことは、広く知られている史実である。しかし、この国際陰謀は実現されなかった。それは外部勢力同士の取り引きがうまく運ばなかった外部要因もあろうが、引き裂こうにも引き裂くことのできないわが民族の強い団結力が大きく働いたとみなければならない。言いかえれば、高麗建国による民族的統合が、異質的諸分派が一つに結合されたのではなく、血縁と言語の共通性に基づく歴史的必然の堅国な結合であり、このように結合されたわが民族は、絶対に引き裂けない強い凝結力をもっていたためだといわなければならない。

 この点を確認するために、もう一度、他の国と比較してみることにする。

 となりの中国の歴史時代は、紀元前一五〇〇年に成立した殷から始まる。殷に続いて周が成立したが、周の末期にいたって諸侯間の勢力争いで国土が分裂し、春秋戦国時代が展開される。秦によって一時、統一されるが、後に秦が滅び、旧貴族の項羽と新興農民層の劉邦のあいだに争いが起こり、後者の勝利で漢が成立する。しかし、漢の成亡後に魏、蜀、呉の三国時代に再び分封する。親の貴族・司馬氏が魏に代わって国号を晋と改め、呉を倒して統一を達成するが、その後、五胡十六国時代、南北朝時代へと再び世は乱れ、やがて隋、唐などの時代に統一局面を迎える。その後も宋、元、明、清などへと代わりながら、分裂と統一の局面が繰り返されるのである。

 以上でみるように、中国は領土が広大なうえに民族の分岐が複雑という特徴はあるが、同じ漢族同士のあいだで統一よりも分裂と対立、抗争の局面が基本となっている。

 ドイツの歴史も、もう一度振り返ってみる必要がある。簡単に大筋だけみても、ヨーロッパのゲルマニヤの中心地域に暮らしていた古代ゲルマン族は、紀元一世紀ごろまで約五十の部族に分かれていたが、五~六世紀の民族大移動の時期に再編を繰り返しながら、サクソン、フランク、アレマン、バイエルンなどの六部族に分立した。その中のフランク族が建てたフランク王国が他のゲルマン族を征服、支配して統合を果たすが、カール大帝の死後、再び分封し、東・西フランクとイタリアに分かれていった。その後、九六二年に神聖ローマ帝国の成立によって統一が成されたが、これもつかの間、十三世紀後半に入り再び分裂しはじめ、群小の国家に分かれた。十五世紀末からオーストリアが一時勢いを増すが、宗教戦争と三十年戦争(一六一八~一六四八年)後に多くの公国にまた分裂した。十七世紀末から十八世紀初めにいたって、ドイツはオーストリアとプロイセンの二つの大きな領邦国家に対立するが、一八一五年のウィーン会議でドイツ連邦が成立し、形式上の統一を果たした。しかし、ドイツ連邦内でプロイセンとオーストリア間の覇権争いが続き、プロイセンがドイツ連邦からオーストリアを追い出して、一八七一年に第二ドイツ帝国を形成して再統一を成した。

 このようにドイツ民族の歴史も、統一されていたときよりも分裂していたときのほうが多かったといえる。これに比べれば、九一八年の高麗建国以後、李朝五百年をへて二十世紀にいたる千年のあいだ、わが民族が統一国家を形成して歩んできた歴史は、どれほど際立った対照をなしているだろうか。

 高麗建国後、千年のあいだ連綿として一つの国家を形成し、自主的な生活を営んできたわが民族史の基本特徴はまた、民衆がもっている人一倍熟い愛国心といわなければならない。

 高麗以後、わが民族の歴史には幾度も厳しい危機が訪れたが、そのたびに民族の自主権を守って統一を保ち、文化伝統を維持し発展させてきたのは支配階級ではなく民衆であった。支配階級は外敵の侵略に怯えて民族を裏切る行為を犯したが、民衆は度重なる内憂と外患のあらゆる犠牲と負担を背負い、国と民族を守って戦った。蒙古軍が高麗に侵入してきたとき、武臣政権は国王とともに江華島に逃亡し屈服したが、高麗の民衆はひるまず抗戦を続けた。三別抄軍の勇敢な戦いがまさにその代表的な例である。

 壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)の際も国王をはじめ支配層は狼狽し、明に援軍を要請して危機を乗り切ろうとした。しかし、民衆は外部勢力に依存せず、決然と立ち上がって義兵をつのり、侵略軍を迎え撃って郷土を守った。南海の大戦で日本水軍に壊滅的惨敗をなめさせ、戦局を有利に転換させたのは、言うまでもなく愛国名将・李舜臣将軍の功績である。しかし李舜臣将軍の功績も、民衆が彼を支持し支えたからなしえたものである。当時の封建政府が、李舜臣将軍の対日抗戦のために与えたものは何もなかった。かえって奸臣の謀略による迫害だけであった。だが民衆は李舜臣将軍を信じてその指揮下に結集し、ともに命がけで日本軍と戦ったのである。

 李朝末期に日本に国を売った乙巳五賊のような民族反逆の徒は支配層の内部から生まれたが、国権回復のため対日抗戦を継続したのは民衆であったという事実については多言を要しない。民衆こそ民族の基本力量であり、高麗建国以後、千年の民族史の守り手であった。これが二十世紀にいたるまでのわが民族史を概括した結論である。

 第二節 解放後の歴史、民族分断の時代

   民族分断の歴史的意味

 五千年のわが民族の歴史を振り返ったうえで二十世紀を考察するとき、二十世紀はわが民族史においてもっと不幸で、汚辱につづられた世紀といえる。その前半期はわが民族が歴史上初めて植民地奴隷として生き、その後半期はやはり歴史上初めて民族が南北に分裂させられ、不幸のなかで生きてきた時代である。

 なぜ二十世紀になって、このように歴史上初めてわが民族が植民地化と分断という苦痛をなめなければならなかったのか。数千年のあいだ自主民族として、単一民族として暮らしてきたわれわれが、二十世紀に入って日本帝国主義の植民地にされ、また分断されなければならなかったのか。これは必然的なことなのか。そうではない。これまで考察したわが民族の統一過程と、統一後の千年間の歴史の流れは、民族史内部に植民地化と分断の必然性がまったくなかったことを示している。二十世紀のわが民族の受難史は悠久の民族史を継いだものではなく、その否定であり断絶である。問題をこのようにみるのが正しい。

 二十世紀の度重なるこの民族受難の原因は、外部勢力の作用にあるという見解がある。わが国が植民地にされたのは、日本がわれわれを信略して併呑したからであり、民族が分断されたのは米ソ超大国の冷戦の産物だというのである。しかし、問題をこのようにだけみるのは単純すぎる歴史認識である。外部勢力の作用とともに、民族内部に外部勢力に屈従して奴僕の役割をした反民族勢力がいたことを見落としてはならない。また八・一五後の民族分断の時代を植民地時代と分離するのではなく、互いに結びつけてみる観点が必要である。わが民族を植民地奴隷にした主犯は日本であったし、民族分断で主投を演じたのは米国であった。したがって日米の相互関係と、日米とわが民族内部の反逆勢力との連関のなかでそれぞれの役割を分析し、「八・一五」の意味を評価して初めて、民族分断の実像を正確にとらえることができ、民族史の守り手である民衆による統一運動の前進と、その勝利の必然性を確認することができる。

 まず民族分断の最初の契機は、三八度線の確定から始まる。

 第二次大戦のさなか、「二十世紀は米国が世界を支配するアメリカの世紀」であると、米国の雑誌『フォーチェーン』の編集人へンリー・ルイスが語ったように、戦後、世界支配をめざした米国が、その支配を実現するにあたって主な障害とみたのはソ連であり、北東アジアでソ連が韓半島に南下する問題に対し、非常に神経をとがらせていた。米国の韓国問題専門家ブルース・カミングス(シカゴ大学教授)は、これについて次のように指摘している。「米国は戦争末期の一九四四年に、すでに万一の場合、ソ連が単独で韓半島を占領する事態になれば、太平洋の安全に対する重大な脅域になるだろうと考えていた。(10)

 ところが、実際にそうした危険が生まれた。ポツダム会談の合意によって、ソ連は四五年八月八日、日本への宣戦布告とともに破竹の勢いで旧満州の日本関東軍を壊滅させ、引き続き韓半島に向かって南進する一方、東海(日本海)の北部海岸に上陸しすぐにも韓半島全域を席巻する勢いをみせていた。これに加えて、白頭山を中心に活動していた抗日武装部隊が作戦を開始したため、米国はきわめて形勢不利な立場になった。

 当時、米軍の最前線部隊はまだ沖縄にいた。そのような状況下で、米国はソ連ずによる韓半島全体の掌握を食い止めるため分割占領を考え出したのである。これについて、米国の韓国問題専門家ジエームス・メドレー(ニューメキシコ大学教授)は「米国はソ連軍の南進に対して非常にいら立ちを感じ、韓半島で米ソの力の均衡を図るため、便宜的な線として三八度縁が確定された。したがって、韓半島の分割は米国の国益のためのものであったのも事実である」と述べた。(11)具体的にいえば、米陸軍省参謀陣の着想により、日本軍の降伏と武装解除をさせる作業分担線として三八度線をソ連側に通告したのであり、ソ連はこれを直ちに受け入れた。こうして四五年八月十一日に米国務省、陸軍省、海軍省の合同調整委員会(SWNCC)によって、三八度線による韓半島分割占領が決定されたのである。言うならば韓半島分断の始まりは、わが民族を無視した米ソ両国の合作品であった。

 米ソ両軍の韓半島南北への進入には、日本の校滑な打算と計略も働いたとみる説もある。これについてソ連の歴史学者ミハイル・スミルノフは、四五年二月一日付の日本大本営命令によって、三八度線以北にいた日本軍を満州関東軍に所属させ、三八度線以南の日本軍は大本営隷下の第一七野戦軍司令部に所属させる再編措置をとったことを指摘しながら、これは日本が情報活動を通じて、ソ連の対日参戦と大戦終結後の米ソ冷戦を予測し、そうなった場合、米ソ超大国をして韓半島を両断させ、将来日本にとって脅域となる統一韓国の出現を防止する計算からであった、と述べている。(12)

 ともあれ、当時の三八度線の決定は直ちに民族の政治的分断を意味するものではなかった。その後に、内外情勢の複雑な流れのなかで、三八度線が民族の分断線として固まっていったのである。当時わが国民はだれも、三八度線が引かれたことで国土と民族が二つに分けられたとは考えなかったし、米ソなど関係国も内心はどうあれ、解放された韓半島に中央政府を建て、独立を保証するという問題を討議する前提のもと、四五年十二月にモスクワ三相会議に集まったのである。

 では、軍事作戦上の臨時的な性格を帯びていたはずの三八度線を民族分断線にし、それを固定化させたのはだれなのか、どの勢力なのかという問題が提起される。まさにここに、分断時代を植民地時代と結びつけて考察し、米国の役割に加えて日本の役割と、わが民族内部の反逆勢力とを連結させてみなければならない理由がある。

 まず、わが国に対する日本の侵略経緯をみると、明治維新後、まだ後進性から完全に脱皮しきれなかった新興資本主義日本が、わが国を単独で併呑する力がなかったことははっきりしていた。日本は英国や特に米国を後援者にし、朝鮮内の親日売国勢力を先頭に立たせる方法でわが国を併呑したのである。

 米国は日本の朝鮮侵略を全面的に支持し、後押しした同調勢力であった。当時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、副大統領在任時に「私は日本が朝鮮を手に入れるのを見たい」と語ったことがあり、大統領になった後には「米国は満州と朝鮮でロシア勢力を阻止している日本を支援しなければならず、また日本による朝鮮併合を許さなければならない」と主張した。それが一九〇五年の「桂・タフト密約」として表れたのであった。

 米国のこのような立場と行動は、一八八二年五月に調印され翌年の六月から発効した朝米修好通商条約への明白な違反であり、背信行為であった。(13)米国がどうしてこのような背信行為をしたのかは別に論じなければならない問題であるが、米国の積極的な後押しがあったため、日本は何ひとつはばかることなくわが国を侵略する道に進むことができたのである。

 日本のわが国に対する侵略はまた、わが民族内部の親日売国勢力に依拠して行われた。日本は朝鮮の封建支配層内に親日勢力を扶植して親日団体をつくりあげ、それを積極的に活用したのであった。「乙巳五賊」と「一進会」などがそれである。

 一九〇四年に日露戦争が起きると、売国奴・宋秉畯は尹姶炳をけしかけて維新会というものをつくり、日本軍の軍事活動に積種的に協力させ、後になって、当時の東学党幹部の李容九を引き入れて一進会と名を改めた。この一進会は、一九〇五年の乙巳保護条約締結の際には、外交権を日本に渡すよう国王・高宗に提案し、また一九〇九年には伊藤博文に韓口併合を提案して、それを高宗に強要するなどの売国行為を積極的に行った。

 韓日併合直後、日帝がわが国に対する植民地支配体制を確立していくなかで、日本官憲のまわりには常に親日反逆者が群がっていた。これらの輩は一九三〇年代からは「内鮮一体」を叫び、「創氏改名」の先頭に立ち、志願兵や学徒兵、徴兵制度を推進するなど、すべての分野で日帝の手先として働いた。

 米国が日本のわが国に対する植民地支配政策を支持し、わが民族の反日独立運動を白眼視した事実は、第一次大戦後、いわゆる「民族自決論」を唱えたウィルソン米政府が、わが民族の輝かしい反日独立闘争であった三・一連動のときにみせた冷淡な態度にもよく現れている。

 次に、八・一五後に米国が南韓で実施した政策をみると、米国は日本のわが国に対する植民地支配の秩序を清算したのではなく、むしろそれを温存させて米国の利益に合致するよう再編成する方向に進んだのである。

 米国は太平洋戦争後、日本帝国主義勢力を徹底して駆逐するのが当然であったが、これとは反対に日本の戦犯勢力を温存させる政策をとった。これは米国が将来、日本の軍国主義勢力を利用しようとする打算から出たものであった。そこで親日派や民族反逆者を保護し起用した。こうして、過去の親日派や民族反逆者がこんどは親米派に変身し、米国人と変わりのない李承晩のような伝統的な親米派と、これまでの親日派とが結合するようになったのである。これは結局、民族反逆者と米国、日本との三者の新たな環境での結託を意味していた。これら新米・親日勢力は米国の力を背景に、そして米国の直接の支援のもとで民族統一志向勢力を抑え、民族の分断を現実化させるのに尖兵の役割を果たした。

 その後、歳月の流れとともに民族分断が深まっていくなかで、強大国によみがえった日本が韓半島分断を深めるのに加担し、重要な役割を分担するようになった。このことは六〇年代の韓日協定妥結後の、日本政府の韓半島政策がよく示している。

 以上で述べたことを要約すると次のようにいえる。日本の韓半島侵略と支配では日本が主役で、米国は背後から後押しし、韓国の親日勢力がここに積極的に動員された。韓半島分断においては米国が主役で、日本は補佐役をつとめ、ここでも親日・新米勢力が積極的に暗躍した。これはわが民族の植民地化や分断において、日本と米国、米国と日本の利害関係が一致していることを意味し、ここに親日派が親米派に変身しうる客観的な条件があった。

 したがって、二十世紀後半の民族分断は、二十世紀前半の植民地時代の延長線上に現れた現象だといえる。このような視点から次のような結論を下すことができる。

 第一に、韓米関係史を再認識、再評価しなければならないということである。百年以上の韓米関係史は結局、米国が韓半島支配を追求し実現してきた歴史であったとみなければならない。十九世紀後半に入って起きた米国商船シャーマン号の大同江侵入(一八六六年)と、米国艦隊の江華島侵攻(一八七一年)は、米国の韓半島支配政策の最初の布石であった。その後、情勢が変化するにつれて、米国は日本に韓半島支配権を一時的に譲っておき、日本が太平洋戦争で敗北した後の新たな情勢のもとで、かつて果たせなかった韓半島支配を本格的に展開しはじめたのである。

 第二に、八・一五はわれわれにとって真の解放ではなかったということである。八・一五は真の解放ではなく、ある意味では植民地時代の延長であるといえる。植民地の支配者が替わっただけである。したがって、民族解放の課題は解決されておらず、わわれれの統一問題、民族問題は民族解放の性格を帯びるようになった。

 第三に、八・一五以後から今日にいたる民族分断史を正しく把握しようとすれば、米国および親米・親日勢力を一方とし、抗日独立運動や民族統一のために闘争してきた民衆力量、民族主体勢力を他方とする両者間の相互関係の側面から理解し、判断しなければならないということである。

 このような観点から、八・一五以後から今日までの韓国の現代史を返りみるとき、それは内外分裂主義勢力による民族分断の固定化過程であると同時に、民族民主勢力が熱い統一念願を抱いて分断体制に反対し、民族運動、統一運動をねばり強く展開してきた過程だといえる。

 このように、分断と統一という二つの視角から、分裂主義勢力による分断の固定化過程と、民族民主勢力の統一運動が不断に展開され高揚してきた過程とを比較、考察する方法で、次にわが現代史を概括してみることにする。

   米国の軍政実施と統一中央政府樹立のための大衆闘争

 八・一五を起点とする韓国現代史をみると、だいたい十年を周期に四月か五月、あるいは六月か七月に重大な事件が起きていることがわかる。具体的には、五〇年六月に韓国戦争が勃発した。六〇年に四月革命が起き、七二年には七月に南北共同声明が発表されるという衝撃的な出来事があった。そして八〇年の四月に「ソウルの春」が訪れ、続いて五月に光州民衆抗争が起きた。そして、十年はたっていなかったが、八七年六月に民衆大抗争が燃えあがった。

 これは民主統一勢力と内外分断勢力間の葛藤が、一定の周期性をもって極点に達し噴き出したものとみることができる。両者間の矛盾と葛藤が激化し噴出するたびに、統一の可能性がある程度高まったが、それは分断の傷口をさらに広げ断絶の溝を深めるだけであった。これは、韓国で権力を掌握している分断維持勢力が、統一勢力の進出に直面するたびに、それをきっかけに新たな方式で分断を深めてきたからである。

 したがって、分断時代の歴史の流れを正しく理解するためには、次の二点に留意する必要がある。

 まず、米国は韓半島全体を自らの勢力圏内におき、支配しようとする政策をとってきたということである。米国の韓半島分断政策を、この基本政策と切り離して考えてはならない。韓半島全体に対する支配が難しい場合は、韓半島を分断してその半分だけでも支配していて、機会が訪れてくれば残りの半分も手に入れるという計略との関連のなかで、米国の分断政策をみなければならないという意味である。

 次に、韓国執権層の見解や政策は米国の見解や政策そのものであり、それを代弁し執行するためのものだということである。親米・親日勢力を基盤に成立した李承晩政権は独自性をもった政権ではありえず、米国の利益を代弁し代行する政権にほかならなかった。李承晩政権のこうした体質は、その後の政権に引き継がれて今日にいたっている。したがって、わが民族の分断史は、外部勢力の支配が独裁政権を生み、独裁政権を通じて分断が深められ、分断状況が再び外部勢力の支配体制を強めるという悪循環が繰り返されてきた過程であったといえる。

 その最初の過程が、まさに八・一五直後の米軍政の実施である。一九四五年九月初めに三八度線以南の地域に上陸した米軍は、軍政庁を設置して占領政策を実施した。マッカーサー将軍の私で「占領に関する規定」を提示した布告第一号が示しているように、米軍は解放者ではなく占領軍として上陸してきたのである。

 米軍が軍政を実施した目的は、言うまでもなく韓半島全体の支配を期待しながら、その最初の足場として三八度線以南への支配体制を確立することにあった。米国は軍政を通じて日帝時代の政治体制をそのまま存続させ、親米派とともに親日派を起用し、彼らが政治や経済の各分野で権力基盤を築けるようすべての条件を整えた。当時、国際的には東西冷戦の最初の局面が現れていた。トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランはこの時期に発表された。

 軍政とは軍事的支配体制以外のなにものでもない。外国軍の軍事的占領が実施される状況下で、日本帝国主義に奪われたわが民族の自主権が回復されようもなく、民主主義が実現されえないのは当然のことであった。そこに民族が南北に分裂されるという新たな悲劇が加わった。民族自主・民主主義・祖国統一をかち取らなければならない民族史的課題の必然性がここから始まっており、ここにまた民族運動の三大目標が提示されているのである。

 しかし当時、多数の人びとはまだ情勢の本質を深く認識できず、主に統一政府の樹立問題に関心を注いでいた。これは、軍政初期には米国という国の実態と、その対韓半島政策の本質がはっきりと現れていなかったためである。特に日帝の暴虐な植民地統治の鎖に縛られていたところに、解放という衝撃的な出来事が現出したため、民衆は解放の喜びに酔いひたすら米軍を解放者と見たのである。ただ一つ民衆が身を切られるような痛みを感じたのは、まったく予想もしなかった三八度線の出現であった。この時期、民族の関心が主に統一政府樹立に集中していた。それには解放されたのだから独立政府を樹立しなければならないという自然な感情のほかに、次のいくつかの状況が大きく影響していた。

 第一に、モスクワ三相会議の決定と、その履行のための米ソ共同委員会の運営であった。四五年末にモスクワで開かれた米・英・ソ三国の外相会議は、わが国の問題を討議して五年間の信託統治を決定した。この決定は本来、米国が提案した二十年~三十年間の信託統治案を五年に短縮し、また統一的な臨時中央政府の樹立を提示した点で肯定的なものであった。それがたとえ「即時独立」という期待に反したものであっても、米ソ両軍が南北に進駐している状況下で、まず米ソ共同委員会の帰趨を見守りながら政府樹立問題を解決するほかなかった。

 第二に、米ソ共同委員会と並行して南韓に起きていた「単独選挙」、「単独政府」の主張と、それを実現しようとする一部勢力の動きがあったことである。米国の意図をよく読み取る李承晩氏は、米国から帰国するやいなや「渚州島だけでも独立しなければならない」と唱えはじめ、四六年六月三日に全羅北道・井邑で行った講演では、三八度線以南だけでも単独政府を建てなければならないと主張した。これらはただならぬ言動であった。李承晩氏の単独政府樹立の声は日を追って高まり、これに同調する追従勢力が形成されていった。このような動きは一般民衆だけでなく、民族的良心をもつ政治勢力に民族分断の危機を実感させ、統一政府樹立のための運動に奮いたたせることになった。

 第三に、米ソ共同委員会の活動が空転を繰り返して失望感を高めるなかで、二八便線が次第にものものしい境界線に変わっていく状況の変化が起きたことである。それがまた民衆をして統一政府樹立を強く望ませた。

 八・一五直後には、それなりに三八度線を無視して南と北に自由に往来し、物資の交易も従前どおり行うことができた。しかし、日がたつにつれて三八度線通過に対する米軍政庁の統制が厳しくなり、四六年五月二十三日には米軍政庁が三八度線の無許可越境禁止令を公布するにいたった。

 こうした状況と関連して、当時の民衆の関心は主に統一政府樹立に注がれ、この時期、民族再生の政治運動で提起された第一義的目標は統一であった。左翼と右翼問の対立が極限に達した状況下で展開された中間派人土らの左右合作運動は、米国とのかかわりで批判もあったが、この運動に参加した呂運亨、金奎植氏らが左右の対決を中止させ、中間路線に基づく統一政府の樹立をめざしたのは事実であった。

 米ソ共同委員会が膠着状態に陥り、米国と親米、親日勢力らの単独選挙――単独政府村立の動きが露骨化するや、米ソ両軍の接収と自主的な総選挙による中央政府樹立運動が活性化した。この運動は金九、金奎植氏ら上海臨時政府系の要人が参与するようになってさらに勢いを増し、それは四八年四月にピョンヤンで開かれた南北諸政党・社会団体連席会議で絶頂を迎えた。しかし、米国や民族反逆者らの妨害によって統一政府樹立をめざす運動は挫折し、政局は米国が意図する単独選挙――単独政府樹立の方向へと進んだ。米ソ共同委員会が最終的に破綻するや、米国は四七年秋、韓半島問題を国連に持ち込んだ。米国は当時、米国の意のままに「挙手機」の役割を果たしていた国連の名で、米国が統制できる統一中央政府の樹立をめざすが、それが不可能な場合には以南においてだけでも単独政府を樹立するという方針であった。四七年十一月十四日、第二回国連総会は米国の意図どおり、韓半島全域での総選挙実施と国連韓国臨時委員団の設置などを盛り込んだ決議を採択した。ソ連と北側はこの決議を認めず、その履行を拒否した。こうして四八年五月十日、三八度線以南地域だけで選挙が実施され、八月に李承晩単独政府がつくられた。

   分断体制の村立、統一運動と反独裁民主化運動の結合

 ここでは、四八年八月の李承晩単独政府樹立から六〇年代末、または七〇年初めまでの約二十年間の動きをみることにする。この時期は内外の分裂勢力が民族の分断を政治的に構造化して分断体制をつくりだし、これを持続させることに力を入れながら、北韓を併呑する機会をねらっていた時期である。国際的には東西冷戦が本格化して「アメリカ支配下の平和(パックス・アメリカーナ)」といわれた時である。

 一九四八年五月、国連の監視のもとに三八度線以南で単独選挙が行われ、李承晩単独政府が誕生した。それに対応して九月に以北でも政府が出現した。こうして南北に二つの政権が並立し対立する局面が始まった。この時期は分断体制の初期で、まだ南北の政権は草創期にあった。この時期に、米国とその追従勢力は北韓の存在を認めず、どのようにしてでも北韓をも手に入れる計略を進めていた。

 李承晩氏は政権を掌握するや「北進統一」に熱をあげた。いくつかの代表的な発言内容をみると、四九年一月の年頭記者会見と国会演説で、国連韓国委員団の支援のもとに北韓を統合できなければ、「国軍が必ず北韓に進撃しなければならない」と主張したし、同年十月にはUP通信社副社長ジョンスンに、「北韓を占領して統一を実現することができる」と豪語し、また米巡洋艦セントポール号で行った演説では「南北分断を戦闘によって解決しなければならない」などと主張した。これらは決して単独で北韓に進攻し、統一を果たせると信じて語ったものではなかった。当時、韓国軍の力はまだそのような水準に達していなかった。このような大言壮語は米国の力を信じ、米国の支援を前提にして放った言葉であった。

 このような雰囲気の延長線上で、五〇年六月二十五日に韓国戦争が勃発した。この戦争の原因については、最近にいたるまで論議が粉々としている。しかし一つだけ指摘できることは、戦争が起きた状況下で、交戦双方は武力で韓半島を統一する道を選んだということである。米軍は五〇年の秋、三八度線を越えて北韓のほぼ全域を占領した。これは米国が武力で北韓を統合しようとする考えであったことの明白な証拠となる。米国の北韓進撃が、北韓の人民軍が一時、南進したことに対する報復とみる人はだれもいない。もし米国が韓半島の分断をそのまま維持する考えであったならば、あれほどの膨大な人的、物的損失を伴う北進をしなかっただろうし、少なくとも北韓の武力を三八度線以北に押し返した後には、休戦していなけばならなかった。しかし、米国は北進に失敗した後になって、平和を求める国際社会の声に応じて休戦会談に同意したのである。韓国戦争は南北双方に甚大な損失を与え、三八度線を休戦ラインに替えることで終わった。

 戦後も李承晩氏の北進統一に対する熱気は容易に静まらず、米国も同様であった。平和統一のための論議と運動はいっさい異端視され、過酷な弾圧を受けた。平和統一を主張した進歩党党首の竹山・曺奉岩氏を処刑したことがそれをよく表している。

 一九四八年の単独選挙による李承晩政権の出現で、韓国民衆の民族運動、統一運動は新たな局面を迎えた。この時期に現れた特徴的な現象として指摘しなければならないことは、韓国民衆が一時、自主と独立がかなえられたという幻想に陥っていたということである。それは次のような事情による。

 まず、米国が軍政を通じた直接的な統治の代わりに李承晩政権を表面に立て、それを背後から操縦する間接的な統治方法に移ったことである。軍政による占領政策を展開していた段階でも、民衆はまだ米国の正体を把握できなかったのに、米国が間接統治に移行した状況下では、なおさら米国の支配主義的正体を見抜くのは難しいことであった。民衆が米国の存任を明確に認識して反米の旗を掲げるまでには、さらに多くの試練をへなければならなかった。米国の正体をよく知らない状況下で、米国がつくりあげた李承晩政権を独白性をもった政権のようにみたのは、避けられないことであった。

 これに加えて、四九年六月二十九日、軍事顧問団だけを残した米軍の撤収が、このような幻想をさらに増大させた。軍事顧問団と駐韓米大使館などの実際の役割を知ることのできない一般民衆は、米国という超大国との関係で、南韓政権を対等な存在として誤って認識したのである。

 次に、「国連が承認した韓半島の唯一合法政府」という神話が、民衆の目を曇らせてしまった。四八年十二月十二日、国連総会は「大韓民国が韓半島において唯一の合法政府」という決議を採択した。当時、米国が支配していた国連の監視のもとで選挙が実施されたことを勘案すれば、国連がそのように評価したのは当然なことだといえるが、それは民衆に幻想を与えるのに非常に効果的であった。

 こうした状況のもとでは、自主権の問題が世論の焦点にはなりにくかった。統一を達成できなかった痛恨を抱いたまま、李承晩政権を迎えた韓国民衆は、李承晩政権のファッショ的傾向が日増しにあらわになるにつれ、そこからくる苦痛を強く感じたのであり、主に反独裁民主化問題に関心をもつようになった。

 李承晩政権は警察武力に依拠する警察独裁政権であった。李承晩政権は主に警察武力を振りかざし、政治的反対派を制圧しながら権力を維持していた。その過程で五二年七月四日の「抜粋改憲」と、五四年十一月二十七日の「四捨五入改憲」のような奇怪な政治詐欺ドラマが続けざまに起こり、李承晩氏の偶像は地に落ちた。南韓民衆は独裁政権の存在が統一を妨害する要因であると認識し、反独裁闘争に立ち上がるようになった。統一への意思が反独裁民主化運動に合流し出括されたのである。

 李承晩独裁政権を打倒した六〇年の四月革命を契機に、民族統一運動が新たな次元で噴出したのは、当然な運動発展の帰結であり趨勢であった。この運動は六一年の春にいたって絶頂に達した。六一年五月五日、ソウル大学をはじめ各大学を網羅した民族統一全国学生連盟結成準備委員会が組織され、この委員会の名前で南北学生会談が提唱された。数日後の五月十三日には、革新系組織である民族自主統一協議会の主催で、南北学生会談歓迎と統一促進決起大会が開かれた。まさに政局の流れは風雲をはらんで統一に向けて疾走していた。

 六〇年代に入り、内外情勢にも新たな変化が起きた。八・一五以後、相反する道を歩んできた南と北の社会体制が固まりはじめ、それはたやすく切り崩せなくなり、相手を武力で統合するのも次第に難しくなっていった。国際的にはアジア・アフリカ地域の民族解放運動が高揚し、第三世界の力量が強化されて非同盟運動が台頭して、「バックス・アメリカーナ」の時代がだんだん色あせていっていた。

 こうした状況で、米国は北韓に対する武力による統合政策を一時保留し、分断体制を強化する方向へと政策を修正した。その表れが張勉政権の「国連監視下の統一論」であった。

 四月革命後に成立された張勉政権は、執権翌日の六〇年八月二十三日、外交施政方針を通じて「北進統一のような無謀で無計画的なスローガンを下ろし、国連決議を尊重して国連監視下の南北自由選挙による統韓政策を遂行する」と言明した。また同年十一月二目、第二共和国の第五代国会は「韓国民の自由と国家の安全が恒久に、あるいは確固と保証されうる措置を講じ、大韓民国憲法の手続きに従って、国連監視下の人口比例による自由選挙の実施」を統韓方案として決議した。

 民衆の粘り強い反独裁抗争に直面して、李承晩氏を下野させ張勉政権を出現させた米国ではあったが、虚弱体質の張勉政権をもってしては、韓国支配体制を維持するのが難しいと判断し、より暴虐な朴正煕軍事独裁政権と交代させた。六一年に武力で張勉政権を転覆して執権した五・一六クーデター勢力は、米国の意図に従って屈辱的な韓日協定に調印(一九六五年六月)し、日本の援助のもとに近代化計画を本格的に推進することになった。朴正煕政権は当分のあいだ分断状況を維持しながら、「勝共統一」による失地回復のための実力を培養するという「先建設・後統一」のスローガンを掲げた。そして、民主・統一運動勢力を過酷に弾圧するようになった。

 しかしいくら弾圧されても、四月革命精神は民衆の心のなかに生き続け、彼らを朴正煕軍事独裁政権に反対する闘争へと導いていった。

  内外分裂主義勢力の「二つの韓国」政策、民主・統一運動の反米自主化運動との結合

 ここでは七〇年代初めから二十世紀最後の九〇年代の今日までの、約二十年間の流れを考察することにする。

 七〇年代初めは、南と北の二つのイデオロギーと二つの体制の併存が無視できない客観的現実となり、体制統合はきわめて難しくなった時期である。国際的には米ソ間のデタントが始まり、米国の国力衰退が顕著になって、その支配主義がこれまでのように通用しにくくなった時期である。

 このような環境の変化から、米国は分断状況を国定させる「二つの韓国」路線へと政策方向を修正することになった。米国も公式に歓迎し、朴正煕政権が北韓と合意した七二年の七・四南北共同声明の採択は、米国や朴正煕政権が統一を願ったからそうしたのでは決してなかった。それは次第に高揚する韓国民衆の統一熱望に便乗して、南北対話の方法で南北の平和共存体制をつくりだし、分断を固定化しようとすることに目的があった。

 したがって、七・四共同声明による南北調節委員会の運営は、空転を繰り返さざるをえなかったし、それが挫折すると、当時の米国務長官キッシンジャーは南北の国連加盟と韓半島問題のための四者会談、クロス承認案を提案した。これを受けて、朴正煕政権は南北の国連同時加盟を骨子とする「平和統一外交政策特別声明」、いわゆる六・二三特別声明なるものを発表した。これに、韓日協定以後、韓半島問題に公然と関与しはじめた日本が積極的に同調した。それから今日にいたるまで、「二つの韓国」路線は米国とその追随勢力の一貫した政策となっている。

 激しく燃えあがる民衆の反独裁闘争に直面した朴正煕政権は、統一問題を政権安保の手段に利用することを決意し、七・四共同声明の発表後に態勢を立て直して執権継続の道へと進んだ。七二年十月十七日に断行した維新クーデターがまさにそれであった。しかし、維新政変は民衆の中に新たな抵抗を呼び起こした。六〇年代の闘争では多くの場合、学生が主であったとすれば、七〇年代に入ってからは宗教人、言論人、文化人など在野政治勢力が広範囲に闘争隊列に加わるようになり、野党勢力も反維新闘争の水準を高めた。

 しかし、七〇年代闘争の全般的様相をみるとき、六〇年代はもちろん、それ以前の李承晩政権の時期と同じように、反独裁民主化を前面に掲げてそこに統一運動を結合させたものであった。民族運動、統一運動はまだ反外部勢力自主化問題と連結されていなかった。七〇年代の運動とそれ以前の運動とのあいだに差異点があるとすれば、それは七〇年代にいたって民主勢力と独裁勢力、統一勢力と反統一勢力間の矛盾と葛藤がより激化したことだといえる。そしてこの矛盾と葛藤は、ついに七九年十月の釜山・馬山抗争として爆発し、朴政権を破滅に追いやった。

 一九七九年十月二十六日の朴正煕氏の破滅は、翌年に「ソウルの春」をもたらした。民主主義と民族統一をめざす民衆の熱望は、押し止めることのできない活火山となり燃えあがった。

 事態のこのような推移は、これまで独裁政権の背後から南韓を間接的に統治してきた米国にとって、大きな打撃であった。ついに米国は南韓民衆の面前に直接出てこざるをえなかった。全斗煥軍部勢力に光州市民殺戮作戦を敢行するよう、韓国軍に対する作戦指揮権を行使した韓米連合司令官、すなわち駐韓米軍司令官の行動がまさにそれであった。

 米軍が八・一五の後、最初に韓国民衆の前に現れて軍政を敷いたときは、それなりに解放者の仮面をかぶっていたが、彼らが二度目に韓国民衆の前に直接現れた八〇年五月には、民主主義と統一勢力の抑圧者としての顔をさらけ出さざるをえなかった。これは政治的矛盾発展の必然的な帰結であった。米国は、李承晩政権では韓国の支配体制を維持できなくなると、李承晩氏をしのぐ独裁者朴正煕氏を押し立て、朴止煕政権が自らの役割を果たせなくなると、凶悪さにおいては朴正煕氏をはるかに上回る全斗煥氏のような人物を、後継者に選択しなければならなかったこと自体が、分断半世紀にわたって累積され先鋭化されてきた民族的、政治的矛盾の表れであった。

 このような矛盾発展の現実のなかで、韓国民衆は単純な反独裁闘争だけでは民主化も民族統一もなし遂げられないことを悟り、反外部勢力自主化、すなわち民族解放の課題を民族運動、統一運動の中心目標に据えるようになった。ここに八〇年五月の光州民衆抗争を分水嶺とした八〇年代運動が、その以前の運動と質的に区別される特徴がある。

 その後、南韓民衆の民族運動は反外部勢力自主化を基本軸にして、そこに反独裁民主化と反分断民族統一の課題を結合させた運動として展開されるようになった。八二年三月十八日に釜山米文化センターに燃え上がった炎は、このような運動の時代が到来したことを内外に告げるのろしであり、また八五年五月二十三日、ソウル大生をはじめ五大学の学生七十三人がソウル米文化センターを占拠して、米国が光州虐殺を支援した事実を認めて公開謝罪し、軍部独裁政権に対する支持を即時中止するよう求める声明を発表したのは、反米運動が大衆化の段階に入ったことを宣言するものであった。その後から今日までの反米闘争については、いちいち列挙するまでもない。

 ここで、分断状況下での民族運動の展開過程をもう一度概括してみると、それは統一から民主化へ、民主化から自主化へと運動目標が不断に昇華されてきた過程だといえる。これは、統一をしようとすれば民主化をしなければならず、民主化をしようとすればまず自主化を実現しなければならないことを、次第に悟るようになった韓国民衆の意識発展過程を反映している。このようにして、分断時代の民族運動は自主・民主・統一を運動の基本目標として定立するようになった。自主・民主・統一の三つに集約されたこの運動路線は、三つの課題をそれぞれ分離させるのではなく、統一的過程として解決しなければならないという意味とともに、各課題の論理的および歴史的連関と順位が示されている。

 このような歴史の流れからみるとき、八七年六月の民衆大抗争は、四十余年にわたる困難な闘争のなかで初めて確認された自主・民主・統一の課題を、統一的に押し進めようとする韓国民衆の意志の誇示であったと、その意味を評価しなければならない。六月民衆抗争以後、米国が韓国で三十年近く存続させてきた軍部独裁勢力を、これ以上、前面に押し立てることができず、「文民統治」の衣で粉飾した政権に交代させざるをえなくなったことは、韓国民衆の抵抗によってやむをえず取るほかなかった後退措置とみなければならない。

 もちろん、これが一時的、戦術的な後退措置であったことは、慮泰愚政権の登場以降、今日にいたる現実が証明している。「六・二九宣言」は六月民衆抗争の熱気を冷却させ、軍部勢力の再執権を可能にするための計略に過ぎなかったし、また北を敵対関係でなく同伴者関係、民族共同体関係と規定した慮泰愚民の「七・七特別宣言」は、六月民衆抗争の延長線で新たに高まりはじめた統一運動の波涛を鎮めるための術策にほかならなかった。全斗煥政権時代と比べて本質的に変化したものは何もなかった。

 このように計略的な政権交代を行った後、米国とその追随勢力は「二つの韓国」政策をさらに危検な段階に押し上げた。八八年九月に強行されたソウルの分断オリンピックは、韓半島分断の固定化、合法化をねらった内外分裂主義勢力の国際的陰謀の産物であり、現在の慮泰愚政権が本格的に推進してきた北方政策も、「二つの韓国」政策の実現のためのものである。

 加えて、八〇年代後半にソ連でゴルバチョフ政権が登場するとともに、ソ連と東欧圏で起こりはじめたペレストロイカ運動によって情勢はさらに複雑になった。東欧圏で政権が交代し体制に変化が起きるに従って、それらの国ぐにがすべて慮泰愚政権と外交関係を結ぶようになり、ソ連までも米国の「二つの韓国」政策に追随して慮泰愚政権を承認した。

 こうして、自主・民主・統一のための民族運動は厳しい挑戦を受けるようになった。しかし、いかに内外情勢が複雑で厳しくなろうと、それがわが民衆、わが民族の統一意志をくじくことは絶対にできない。これが八・一五以後の半世紀にわたる分断史を概括したうえで下す結論である。

 第三節 分断歳月の経過と統一への意志

   時間と分断、時間と統一

「分断の歳月が絶えまなく流れる

傷口を洗う忘却の川も深くなっていくばかりだ

……

もはや統一は漠然とした理想のように色あせてしまったのだろうか

何より恐ろしいのは意識の変化だ」

 これは今から十余年前、韓国戦争二十九周年に際して『月刊中央』誌(一九七九年六月号)に掲載された巻頭言の一節である。過ぎ去る歳月とともに分断の痛みが徐々に薄れていくので、統一とは生前にかなえることのできぬむなしい願望ではないのか、という悲嘆調の巻頭言であった。

 忘却の機能はどうすることもできないもの、いや必要な機能ともいわれている。人が長い人生を生きていくなかで経験する数々恥辱的な出来事、身にしみて悲しかったこと、くやしい思いをしたことなどを一つも忘れず、その時の感情をそのまま頭脳の記憶細胞の中に積み重ねておくならば、その累積した心理の圧迫によって人間は神経がすりへり、ノイローゼになって寿命が短くなると心理学者は説明している。

 歳月は忘却機能を起こさせ、喜怒哀楽によるストレスを和らげ解消してくれる。それに、流れ去る歳月は世代交代を起こし、ある社会的現実を目撃した世代から遠くなればなるほど、その現実に対する認識と把握が一段と観念的なものに変わっていく。

 『月刊中央』誌が、分断の痛みに討する人びとの忘却機能を憂えたのは十余年前のことであった。十年たてば山河も変わるというが、あれから十年の歳月が流れたので国民の意識はもっと変化し、分断の痛みをより少なく感じるようになったのではないかという問題が提起される。

 そのようなことがありうることを、いくつかの側面からみてみよう。

 まず、分断の苦痛に慣らされてゆくことを指摘しなければならない。南北が断絶されたまま分断の歳月が四十年をこえ、半世紀に迫ろうとしている現時点において、八・一五当時、国土と民族が南北に引き裂かれるのを目撃した世代はすでに老年期に入っている。それに伴って、あの日の解放の喜びとともに味わった分断に対する驚きと悲しみ、怒りの感情が、いつの間にか希薄になっているということである。分断の痛みの減退は統一熱望の減退につながる。

 次に、分断後五十年近くなるあいだに二世、三世が育ち、今や全人口の多数を占めるようになった点を指摘することができる。彼らにとって、軍事境界線の向こうの世界はまったく未知の世界であるだけでなく、政権当局の反共・反北教育によって一種の恐怖心さえ抱かされる世界でもある。彼らにとっては、白頭山から漢拏山にいたる南北三千里に一つの民族が仲むつまじく暮らしてきたという話は、神話のように聞こえるかもしれない。

 次に、歳月とともに南北間に制度と文化が異なり、心の距離が次第に遠くなっている事実である。その間、四月革命と七・四南北共同声明、八〇年の「ソウルの春」など、幾度となく統一の明るい希望が訪れたが、そのたびに黒雲が希望を覆い隠すなかで、希望と期待が挫折とあきらめに代わった事実なども指摘しなければならない。

 歳月が流れるほど統一はますます難しくなるとの思いと焦りが起きるのは、避けられないことだといえる。統一をいつまでも引き延ばしてはならない理由がまたここにある。内外の分裂主義勢力が統一を妨害し、分断体制を持続することに専念してきたのも、まさに時問による人間心理の忘却機能に期待をかけて、そうしているともいえる。

 しかし、時間の流れによる忘却機能は人間生理の一側面でしかなく、本質的に異なる別の機能もある。それは生活の体験を忘れず、世代を継いで継承される機能である。そのような機能の作用は人類を発展させる原理の一つであり、社会と歴史を前進させる原理の一つだといえる。ひとりの人間が体験と知識をすべて忘れるばかりで、それを蓄積できないとすれば、それは重症の健忘症にかかったというべきである。社会の構成員がすべて過去の出来事を忘れ去ってしまうとすれば、果たして過去から現存、現在から未来に引き継がれる歴史の進歩があり、絶えず未来へと前進する社会の発展があるだろうか。それは歴史ではなく無意味なコマ切れの時問が機械的に累積されていく時間の塔にすぎず、そのような社会は死んだ沼のように停滞した社会といわなければならない。

 人間には明らかに忘却の機能とともに、体験を反芻し蓄積する機能もある。時間の経過に作う忘却の機能と、過去の社会的体験を絶えず再生、再現し、継承して拡大発展させる機能との相互関係で、前者が優勢な社会は停滞または退歩していき、そのような民族は歴史の枠外に押し出されて滅びるが、後者が優勢であるときは、社会が進歩し民族が隆盛することになる。

 今日、分断の苦痛に対する忘却機能が作用している点を無視することはできない。しかしそれだけを一方的に強調しながら、歳月の流れとともに分断の痛みへの感覚がさらに強く作用していることをみようとしないのは、甚だしい偏見だといえる。

 八・一五直後、すぐにも統一独立政府が樹立されるものと期待し、胸をふくらませていたその日の感情と、八七年の六月民衆抗争から九〇年代初めの今日にいたる期間、民衆のなかから怒濤のように沸き起こっている民族統一運動の現実とを比べるとき、分断という民族最大の苦痛と、それをいやし統一をなし遂げようとする熱望が、時間とともに消えることなく、さらに力強く燃え上がっていることを知ることかできる。

 これはわが民族の魂が生きて躍動している証拠であり、統一の前途に対する希望を与えてくれるもっとも基本的な源だといわなければならない。

   燃えつづける統一への意志

 九〇年代に入った現時点で、わが民族の分断史を振り返ってみると、八〇年代は希望の年代、統一意志が噴出した年代である。八〇年代が過ぎる過程で分断を終らせ統一を早めようとする世論が激しく沸き起こり、民族統一運動でそれ以前とは異なる現象が現れた。そのような社会的雰囲気の現れのなかでも、特に次の二つは強調しておくべきであろう。

 一つは、「分断時代の史学」が出現し広まりはじめたことである。韓国近代史のなかでの二十世紀後半期を、慣例どおりに「解放後時代」と呼ぶことを拒否し、その時期を「分断時代」あるいは「統一運動時代」として把握しようとする、歴史意識に基づいた史学界の新しい流れである。この分断時代史学が、既成世代ではなく若い少壮派史学者の中から提唱された事実に注目する必要がある。

 もう一つは、分断年度が使用されはじめたことである。八七年四月十七日、ソウル大生らが四月革命記念式を開催した際に、宣言文に「分断祖国四二年四月十七日」と記したのがその始まりであった。そのとき、関係者は「ふだん、大学生の壁新聞には檀紀年号を使用した例は度々あったが、分断年度の使用は初めてのこと」だと語った(15)分断年度の使用は分断時代史学の歴史意識と相通じるものである。それは八・一五以後の歳月の流れを分断の年輪が重ねられていく過程と把握し、歳月の流れとともに民族分断の痛みを思い起こし、統一祖国に対する念願と意志を新たに固めていこうとする、この地の若い知性の民族的良心の表れであった。その後、分断年度は「統一念願00年」という式に表現が変わり、大学街の垣根を越えて社会の各界で愛用されるようになった。

 八〇年代になって現れたこの特異な現象は、分断の歳月が流れれば流れるほど、この国の民衆の心の中に統一意志が消え去ることなく、さらに強固になっていることを意味しているといわなければならない。

 八〇年代末から九〇年代初めの今日にいたるまで、わが民族の統一運動は新たな様相を帯びてさらに高い次元で展開されており、国内外の七千万同胞の統一熱望は一つの人河に合流し、激流となって流れている。今や統一運動は少数の運動ではなく多数の運動へと転換し、社会の一部階層にかぎられた運動ではなく各界層を網羅する大衆運動に広がっている。また単純な統一論議に終わるのではなく、分断の障壁を切り崩し民族の和解と団結、統一をなし遂げるための実践闘争へと発展している。

 とりわけ八九年春の文益煥牧師のピョンヤン訪問、同じ年の夏の全大協代表・林秀卿さんのピョンヤン祝典への参加と、板門店を経由しての南への帰還は、この国の民衆の心の中ですでに三八度線は消え去り、地上の三八度線を切り崩すための大事業が始まったことを国内外に宣言したものであった。そして九〇年代の最初の年、八・一五四十五周年を迎え、板門店とソウルで開催された祖国の平和と統一のための汎民族大会と、大会の決議に従って九〇年十一月、ベルリンで宣布された祖国統一汎民族連合(汎民連)の結成などは、九〇年代統一に向かう情勢の流れを、今やだれも逆転させることができなくなったことを示している。

 統一運動がこのように高い次元に発展するまでの過程を振り返ってみると、そこにはいくつかの特徴が見い出される。

 第一は、既成世代、特に既成世代出身の政治家に比べて、若い世代のなかで運動が一段と活性化されていることである。言うならば、一つの民族が外部勢力によって両断される胸痛む現実を目撃、体験した世代に比べ、それを知らずに育った世代に統一の意志がより旺盛に宿っていることである。年齢を重ねるほど、社会的地位が高い人ほど、日常生活に身を作せて分断の現実に妥協的になるが、若い知性のなかには汚れなき民族的良心がそのまま生きて躍動していることを示している。

 かつてなく高まった今日の統一運動の先頭には、これらの青年学生が立って主導している。彼らは六〇年代から七〇年代にかけて生まれた若者たちである。

 第二は、若者の運動様相をみても、歳月が流れるほどその次元が高まっていることである。四月革命直後の六一年五月十三日、ソウル大生が「行こう北へ! 来たれ南へ! 会おう板門店で!」というスローガンを掲げて決起したとき、それは非常に衝撃的な闘争であった。この決起人会に一万五千人の学生や市民が参集した事実だけでも、それを知ることができる。八八年に六・一〇南北学生会談を目標に掲げて闘争に立ち上がったが、政府当局の弾圧で挫折すると、再び八・一五学生会談を目標に止ち上がった学生らの統一運動は、「行こう漢拏から! 来たれ白頭から! 会おう板門店で!」という基本スローガンや、その他の様相においても六一年五月のそれと似通っている点は少なくない。しかし、運動の組織性と激烈性において六一年五月の運動とは次元が違う。そのために、八八年の春から夏にかけて学生らが展開した統一運動は、統一問題に対していっさい口を閉ざしていた慮泰愚政権をして、「七・七特別宣言」を出させることになった。

 このような事実は、各時期の統一運動の先頭に立った青年学生らが、それ以前の先輩らの闘争経験と伝統を継承しながら、不断に運動の戦略戦術を発展させていっていることを物語っている。

 いかに歳月が流れ万物が変化しようとも、変わらないものは民衆の統一意志である。時間がもたらす忘却作用に期待をかけ、分断状況を持続させることで痛みを忘れさせようとする国内外の分裂主義勢力の企図がいかに執ようであっても、引き続き燃えさかるのは民衆の統一熱望といわなければならない。

 分断半世紀が過ぎ世代が代わっても、民衆の統一意志が弱まることなく絶えず高揚してきた過程は、分断現実に対する民衆の認識が不断に深化してきた過程であるといえる。言いかえれば、分断状況が持続して徐々に固定していき、「二つの韓国」へと永遠に裂かれてしまう危険が大きくなるにつれ、またそのような分断を追求する勢力に対する認識が深まるにつれて、それに対する反発あるいは抵抗意識としての統一意志が高揚してきたということである。

 ここで認識と実践の相互関係について考えてみる必要がある。認識は実践の前提であり出発点であるが、それが直ちに一定の目的に向かう行動の意志そのものではない。認職と意志のあいだには一定の距離がある。問題の本質は認識しているものの認識の段階にとどまり、問題解決のための行動に移らない場合が少なくない。

 現実認識が現実変革の意志に昇華するためには、もう一つの段階――選択と決心の段階をへなければならない。分断の現実に対する民衆の意識が深化するにつれて、その認識が強力な統一息志へと転換されるようにする力は何なのか。それは民族意識、民族自主意識である。「我」と「他者」を区別するだけでなく、「我」を主張し実現しようとする自主意識が躍動するからこそ、民衆は外部勢力とその追随勢力によって断ち切られた国土と民族の苦痛を胸痛く感じ、統一のための抗争の道を選択し決心することになる。

 この国の民衆の統一意志を底から支える自主意識、民族主体意識は、五千年にわたるわが民族の自主、自尊の歴史を背景にしており、これは日帝植民地時代に抗日独立運動の過程で高度に培われた主体意識と連結されている。そのために植民地時代と連結された分断時代下でも、民衆の自主精神は曲折と起伏をへながら連綿と受け継がれ、八〇年代後半に統一運動の怒濤の時代を切り開き、今日では九〇年代統一に何けて民族の大行進を生み出している。

 八・一五以後、米軍政庁の官吏であったグレゴリー・ヘンダーソンは、『韓国、うず巻きの中の政治』という著書のなかで、韓国政治の生理は中央権力志向の「原子化された上昇気流」と評しながら、「どのような政権であっても権力さえ握れば、大部分の韓国人は危険も原則も気にかけず迎え入れることに慣らされ、どのようなものにでも容易に適応してしまう」と指摘している この見解は、彼が米軍政庁に務めていたとき、過去の親日派・民族反逆者らが新たな支配勢力となった米国や李承晩一派に、情実やコネをたより接近しようとしてまき起こした「うず巻き」に強い印象を受けて下した判断であろう。変身に長けた少数の人をみて、ヘンダーソンが「大部分の韓国人」とみたのは誤った判断であった。

 大部分の韓国人は「ひまわり族」ではなく、国家の政治、民族の運命に深い関心をもち、社会の不正と不義をただすたたかいで恐れを知らない強い意志をもった人たちであったし、今もそうである。甲午農民戦争から三・一独立運動、分断時代の四月革命と光州民衆抗争へと続く近代百年の韓国民族運動史は、民衆の自主精神を抜きにして正しく理解することはできない。

 あるとき、フランスとドイツなどヨーロッパ諸国の若者の意識構造について調査したところ、民族と国籍に対する意識がはっきりしていなかったのが特徴であったという。それは、狭い地域に数多くの国家と民族が密集しており、相互の接触、交流が複雑なヨーロッパの歴史と現実の反映かも知れないが、そうだとしても、決して称賛したり歓迎すべき現象とはいえない。それに比べると、わが韓国の若者、青年学生の気質は明らかに異っている。たとえ日本帝国主義植民地時代を体験していなくても、その日本が再び韓半島の南側に浸透しようとした六○年代に、韓日協定反対闘争の先頭に立った韓国の学生ら、分断以前の一つの民族の姿を知らないけれども、統一運動を主導して来たし今も主導している青年学生ら、彼らの胸の中に燃えさかっているのは民族自主意識であり、主体意識である。

 現代世界史の大きな潮流となってきた各国の学生運動が、六〇年代の日本学生運動の退潮を境に息をひそめ、傍観したり現実と妥協して安住しているとき、そして最近では、一部の国で青年学生が社会と歴史の前進を遮り、後戻りさせる反動の役割を果たしている実情を念頭においてみるとき、歴史とともに前進を続ける韓国の青年学生運動は、植民地時代が分断時代にそのままつながってきたわが民族の、苦難に満ちた歴史のなかで育まれてきた民族自主精神の表れである。

 このような民衆、このような若者がいるがため、わが民族の再統一は歴史の必然であり、必ず分断の暗闇を払いのけて統一の新しい日が明けてくると確信できる。

 注

(1)林承国(歴史学者)「異説説話韓国上古史」(『月刊中央』一九七九年二月号)

(2)趙芝薫(詩人・高麗大学教授。一九六八年没)は専門史家ではないが、韓国史に関する深い知識を持っていた。原朝鮮人に関する趙芝薫教授の見解は、次の論文に展開されている。「韓国民族運動史」(『韓国文化史大系1』高麗大学民族文化研究所発行・一九七〇年)

(3)趙芝薫著「韓国民族運動史」(『韓国文化史大系1』高麗大学民民族文化研究所発行・一九七〇年)

(4)韓国民衆史研究会編「韓国民衆史1」(プルビッ社発行・一九八六年)

(5)崔泳根(国史編纂委員会委員)「統一新羅時代の地方勢力研究―新羅の分裂と高麗の民族統一」(新書院発行・一九九〇年)

(6)崔泳根「統一新羅時代の地方勢力研究―新羅の分裂と高麗の民族統一」(新書院発行・一九九〇年)

(7)林承国著「異説説話韓国上古史」(『月刊中央』一九七九年二月号)

(8)百済王朝の居域があった忠清南道の扶蘇山西端にある大きな岩。新羅唐連合軍の侵攻を受け落城した時、三千人の宮女が忠節を守ってこの岩から白馬江に身を投じた。百済亡国の悲話として今も語り継がれている。

(9)趙芝薫著「韓国民族運動史1」(『縄国文化史大系1』高麗大学民族文化研究所発行・一九七〇年)

(10)ブルース・カミングス他「分断前後の現代史」(日月書閣・一九八三年)

(11)ジェームス・メドレー著「予想された危険―一九四一年~一九五〇年まで米国の対韓政策」

(12)一九九〇年初めにモスクワで開かれた「韓国とソ連の間の関係発展問題に関する第一回韓ソ学術セミナー」。このセミナーでは韓半島分断の原因と、超大国である米国とソ連の責任問題が論議されたが、これに関連してソ連の学者ミハイル・スミロノフは、三八度線による韓半島分断は日本が戦後、米ソの対決を予測して前もって取った措置とも関連するとの見解を明らかにした。

(13)一八八二年九月二十二日に締結された朝米修好通商条約は、朝鮮の自主権を侵害する条項が多い不平等条約であった。それにもかかわらず、条約第一条には「朝鮮と米国は、永遠な平和と友好のために、万一他国が一方に対し不当にまたは抑圧的に行動するときは、他方がその事件の通知を受ければ、即時必ず協力し円満な妥結をもたらすよう周旋をすることで、その友好を表す。」と明文化されている。しかし、これは弱小国の運命をもてあそぶ米国の政治的欺まん行為にすぎなかった。

(14)マッカーサー米陸軍太平洋総司令官の六個条からなる布告第一号から必要な部分を引用すれは次の通りである。

   本官は、本官に与えられた太平洋米陸軍の最高権限をもって今後、朝鮮の北緯三八度線以南と同地の住民に対し軍政を実施するにあたって、政令に関する条件を左記の通り布告する。

  第一条 朝鮮北緯三八度線以南の地域と同住民に対するすべての行政権は、当分の間、本官の権限下で執行する。

  第三条 住民は本官と本官の権限下で発表した命令に即時、服従すること。占領軍に対して反抗行動をとるか、または秩序をびん乱させる者は容赦なく厳罰に処する。

  第五条 軍政期間中、英語をすべての目的に使用する公用語とする。英語と朝鮮語または日本語間の解釈、および定義が不明または不同が生じたときは英語を基本とする。

(15)『韓国日報』(一九八七年四月十九日付)

 [はじめに][第1章][第2章][第3章][第4章][第5章][第6章][むすび]