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「わが祖国統一論」第1章

 第1章

 第一章 統一問題の認識と実践の出発点

 民族の分断が永く続き、南北間を隔てる断絶の壁が高くなっていくなかで、統一問題は次第に絡みあった麻のように解きがたい問題として扱われるようになった。今日に及んで、統一問題をどのように認識し実践するのか、という課題を設定しなければならなくなったこと自体が、半世紀近い分断時代を生きてきたわが民族の苦悩を表し、統一の難しさを物語っているといえる。

 だからといって、統一が実現不可能な問題になったという意味ではない。わが民族にとって、決して悲観したりあきらめたりしてはならないのが統一である。今日においても統一は依然として民族史の必然であり、当為である。問題は統一の道を切り開く糸口をどこに見いだすかにある。このために、統一問題を正しく認識し、実のある統一運動を展開するうえで、出発的前提となるいくつかの問題点を提起し論じてみたい。

 第一節 統一問題の性格

   統一問題に対する視角

 国土と民族が分断されて以来、今日まで統一について語らぬ人はなく、統一を重要な政策として認めなかった政治勢力もなかったといっても過言ではない。それほど祖国統一は全民族の最大の関心事であり、必ずや解決しなければならない民族的課題として残されている。

 しかし、統一を語っているからといって、それが直ちに統一を心底願っていることを意味するものではなかった。韓国民衆が骨身にしみて経験したように、国民の統一熱望に便乗して統一問題を権力椎持の政略的手段に悪用したり、平和と統一を声高に叫びながら実際の行動では分断を合理化し、南北間の緊張と対立を巧妙にあおりたてる政治勢力もあったし、現在もある。こうして、統一を心底願う統一勢力と、心の底では統一を望まずポーズだけをとる反統一勢力とのあいだに、統一論議における視角の差異と対立状況が明白に現れるようになった。

 このような視角の差異と対立関係で、基本的なものは統一の概念に討する認識の差異、統一の目的に対する理解の差異、統一を待ち望む姿勢の差異である。言いかえれば、統一とは何なのか、なぜ統一しなければならないのか、統一は緊急な課題なのかどうか、という問題である。

 八・一五後に、まったく思いがけない三八度線=分断線が引かれたが、当時南北の同胞は、引き裂かれることなく一つの民族として生きていくのはきわめて自然で、当然なことと思っていた。当時、だれかが統一とは何を意味し、なぜ統一しなければならないのかなどと問いかけたならば、おそらくその人は魂の抜けた人のように見られたに違いない。

 当時は問題にもならなかったことが今日では公的に重要な論議の対象になり、過去には自明のことと思われた問題が難解な問題として取り扱われるようになった。なぜそうなったのか、まずその理由を明らかにしてみたい。

   統一の槻念について

 われわれにとって統一とは何かと問うたとき、それは分断の壁を取り払い、南と北に両断された国土を一つにつなぎ、分かれて暮らしている民族を一つにすることだといえるだろう。

 統一に対するこのような認識は、分断の初期はもちろん、五十年近い分断の歳月が流れた今日でも変わらないことであり、長々と説明する必要はない。あえて若干の説明を加えれば、国家とは領土と人民、統治権の三要素から成り立つものであるが、今わが祖国は国土が両断されて民族が二つに引き裂かれており、それに政治権力が二つ存在している。したがって、祖国統一とは二つに分かれた国土と民族を再結合させ、それを統治する統一政府を樹立する作業を意味することになる。

 ところがいつの問にか、この明白な統一の概念について異議を唱え、統一の意味を難しく解釈しようとする人びとが現れはじめた。一九八九年八月三十一日から九月一日の両日にかけて、韓国の国会統一政策特別委員会が開催した統一政策に関する公聴会で、このような主張が顕著に見られたので例に挙げてみよう。

 公聴会で与党を代表して陳述した李世基氏(当時、民正党・平和統一委員会委員長)は、皆が統一、統一と同じ用語を使っているが、各自が措いている統一像がまちまちなので、統一の概念から統一させなければならないと前置きして、「分断の障壁を解消し、民族全体の生存権と生活の領域を拡大発展させるのがすなわち統一」だと考える空間回復概念としての統一認識を捨て、時間活用の概念に移行しなければならないと主張した。空間回復としての統一の発想は、分断以前の状態に戻る原状復帰を前提とするものだが、今では原状復帰は不可能なので、空間回復の次元での再統一だけを考えるのではなく、これから時間をうまく活用して未来の歴史のなかで新しい国、新たな統一祖国をつくりあげる「新たな統一概念」をもたなければならないというのである。(1)

 与党・政権党の意思を代弁しているこの主張の中から、問題になる点をもう一度取りまとめてみよう。分断された国土と民族を再び一つにする「空間回復」=「原状復帰」、すなわち「再統一」は今や不可能なので、「時間活用」の次元から「新たな統一」を模索しなければならないというのである。分断が五十年近くも続いた今日、分断以前の原点に戻れないことについては別に異議はない。そして、統一のために時間を活用しようという主張についても、時間を浪費せず統一を急ごうという意味ならば反対ではない。しかし、時間と空間という二つの概念を統一問題に機械的適用して対立させ、二つに分けられた国土と民族の再統一は不可能だというのでは話にもならない。万一そうだとすれば、これから時間を活用してなし遂げようとする「新たな統一」が含んでいる意味は何なのか。彼が主張する政権当局の三段階統一論でいう、南北協力関係と南北連合段階をへて実現される南北統一段階での統一とはどのようなものなのか。国土と民族の再結合ではないとするならば何であるのか。それについて彼は明らかにしていない。

 公聴会ではこの外にも、南北の空間的・地域的統一を統一とはみなさない、という主張が、政権当局の宣伝をオウム返しに行う人たちによって強調された。

 一つの領土に民族がともに暮らしていたその時期は、もう再び戻ってこない過去のことであり、したがって「再統一」は不可能だとする主張は、それを「新たな統一」などと粉飾しても、分断の現実をこのまま維持しようとする反統一論でしかない。

   統一の目的について

 われわれはなぜ、必ず統一しなければならないのか、ということは論理依然の民族的感情であり、民族の良心に属する問題といえる。統一の目的や当為性を理論約にあれこれと突き詰める必要はないという意味である。それは、あたかも外部勢力の支配と隷属に反対して独立運動を繰り広げている民族が、われわれはなぜ自主独立しなければならないのかと自問する必要がないのと同じである。一つになって暮らすことが民族本来の姿ならば、二つに分かれて暮らすことは非正常であり、ゆがんだ現実である。ゆがんだ現実を正常な姿に戻すのに特別な理由があるはずがない。永い歴史を通じて単一民族、単一国家を維持してきたわが民族にとってはなおさらそうである。

 われわれと違って客観的立場にある他国の人が、われわれに向かってあなたたちはなぜ「統一」、「統一」と叫ぶのかと問うならいざ知らず、外国人ではなく、民族の内部でそのような論議を展開する人が現れたことに問題の深刻さがある。これは、一つの民族が二つに引き裂かれて暮らしていくことに馴らされすぎて、今ではそれが正常な状態のように錯覚し、統一するということは異常なこと、なにか奇怪なことでもあるかのように考えるようになった表れといえる。実際において分断体制のなかで大きな利益を得続け、統一されればその既得権を失うかもしれないと憂える階層の中から、このような見解が出てきている。

 韓国自由総連盟といえば、官製の反共御用団体としてよく知られている。この団体の広報極長・朴錫均氏は統一問題の公聡会で次のように言っている。「なぜ統一しなければならないのか。統一それ自体が私たちの目的だとは考えていない。私たちの目的は民族全体の福祉を向上することにあるのであって、統一それ自体が目的ではない(2)」。いわば、豊かに暮らすために統一しようというのであって、豊かに暮らす足しにもならない統一なら必要ではないという主張である。

 このような主張を展開する人びとの思考の根底には、統一問題と民族の福祉問題とが観念上分離されており、国土が分断されていても豊かに暮らしているのに、もしかすると既得権を失うかもしれない統一を、苦労してまでなし遂げる必要はないという判断がある。これは、民族の良心が麻痺した思考方式といわざるをえない。わが民族が味わっているすべての不幸の原因が、外部勢力による国土分断にあるとするならば、民族の恨(ハン)を晴らし真の生きる道を開いてくれるのが、まさに統一なのである。統一と民族の福祉向上は別個の問題ではなく、一つに結びついた問題である。

 かつてインドで独立運動が盛んだったころ、独立運動のある指導者がイギリス人と会った。イギリス人はその指導者に、イギリスがインドから手を引けば、インドの人びとはもっと貧しくなるだろうに、それでも独立する必要があるのかとたずねた。その指導者は、いかに貧しく暮らそうともインド人同士で暮らすほうがよいので、イギリスはインドから出ていけと答えた。これが国を愛する心、民族を思う立場である。民族分断の悲劇をなめているわれわれにとって、統一よりもっと大きい目標はない。統一を離れて国を愛する道、民族的良心に生きる道はありえない。

 統一をあれほど熱望しながら、この世を去った張俊河氏はこう語った。「すべて統一はよいのか。そうだ。統一以上の至上命令はない。統一は引き裂かれた民族が一つになることであり、それが民族史の前進であるならば、当然すべての価値あるものがそのなかに実現されるであろう。共産主義はもちろん、民主主義・平等・自由・繁栄・福祉、これらすべてが統一と対立する概念としてあるうちは、本当の実価を獲得することはできない。あらゆる真理、あらゆる道徳、あらゆる善が統一と対立するものであるときは、それは偽りの名分であって真実ではない」(3)

 結局、統一の目的論に現れた統一勢力と反統一勢力問の見解の差異は、統一を民族至上の課題とし、すべてを統一と連結させて統一に従わせる立場と、自由とか福祉とかの他の価値を統一より上位におき、それと統一とを分離させて、統一をそれに従属させる下位の概念として解釈しようとする立場の違いといえる。

   統一を待望する姿勢について

 統一問題に対する統一勢力と反統一勢力の相反する視角の差異は、統一を待望する姿勢の違いにも現れている。これは統一概念に対する認識と、統一目的の理解の違いからくる当然の結果だといえる。統一を、引き裂かれた国土と民族を再び一つにつなぐことと認識して、民族至上の課題と理解すれば、統一は早ければ早いはどよいと考えるようになる。だから統一を熱望する姿勢をとる。反対に民族の再結合はもはや不可能だと認識し、統一自体が目的ではないと理解するならば、統一をそれほど急ぐ必要はないとの考えから、統一に対して消極酌で冷淡な態度をとるようになる。

 半世紀近い分断時代を生きてきながらも、青年学生をはじめ韓国の民衆が決して悲観も絶望もせず、統一運動を粘り強く展開してきているのは、統一を熱望しているからであり、執権層などの政治勢力が統一運動に対して不安と不満を抱いて抑圧するのは、統一を願っていないためである。

 統一を早めようとする青年学生などの民衆運動勢力を非難し、罵倒する執権層の言い方はまちまちであるが、大きく二つに区分できる。

 一つは、性急過ぎる統一論だという非難である。南北関係の改善と統一は非常に複雑で難しい事柄なので、実現可能で容易なものから一つずつ解決していくべきことなのに、一挙に分断の壁を飛び越えようとするのは、北韓の戦略に乗る「利敵行為」であり、統一さえできれば結果はどうでもいいという分別のない考えだ、というのが非難の要点である。このように非難する人びとの「分別ある」統一論とは、さまざまな名分を統一に先立てて、統一の課題を遠い未来のこととして常に後回しにしようとするものであり、結局は統一に反対し、分断を固定させようとする主張以外のなにものでもない。

 もう一つは、感傷主義的な気分にとらわれた非現実的な統一論だという非難である。学生らの熱気あふれる統一論議と統一運動に対し、それを快く思わない特権層は、「韓国戦争を経験していない若い世代の無軌道な行動」だと常に非難してきた。三党合同で民自党をつくりだすのに一役買い、その党の最高委員になった金鍾泌氏は、三党合同の政界再編に先存つ九〇年一月十六日、共和党の江原道・洪川郡地区党改編大会で、「北韓を同じ民族だという感傷的な側面から、統一問題に接近しては困る」とまで妄言した。

 南北に引き裂かれた同民族同士が互いに接近し、和解し統一しようとするのを感傷約だとか、感情的だというならそれでいい。しかし一つ明らかなことは、このような感傷と感情をもたない人は、分断の悲しみを抱いて生きる民族の、構成員としての良心をもった人間とはいえないということである。統一に対する熱望を抱き、どのような困難があろうと、統一を一日でも早くなし遂げようとする民衆の志向に対して、感傷的だと非難する人びとこそ、民族への愛も、統一の念願ももたない人であることを自ら暴露しているのである。

 以上のように、統一問題に臨む統一勢力と反統一勢力問の視角の差異を比べてみれば、結論は明白となる。いくら歳月が流れようとも、統一の意味と当為性は変わらず、分断状況が長引けば長引くはど、統一は一層切迫した課題となるのである。分断された後に変わったのは、分断体制に安住し、それに満足している人びとの統一に対する視角である。統一問題をゆがんだ視角からみる人びとには、明白なことが明白ではなく、自然なことが不自然であり、容易なことが難しいことのように感じられるのである。統一への道を切り開くためには、このような問題点からまず正しく認識しなければならない。

   祖国統一の民族的性格

 分断体制下で既得権を満喫している勢力の目を濁らせたものは、主に理念と体制の問題である。南北間のイデオロギーと体制が違うために、国土と民族の再結合が難しく望みがない、したがって統一を急ぐ必要はない、というのが彼らの主な論拠となっている。言いかえれば、南北間の体制の差異がなくなって、初めて統一が可能だというのである。これは統一問題を体制問題に帰着させる観点である。

 では、果たして統一問題とは体制問題、すなわち南北間の体制上の差異と対立を解消し、体制統一をなし遂げるということであろうか。分断の経緯からしても、半世妃近く分断が持続してきた過程からしてもそうだとはいえない。

 周知のとおり、わが祖国の分断は外部勢力によって引き起こされ、今日まで統一を成就できないでいる原因も、外部勢力の支配と干渉、そして妨害工作にある。すなわち米国が八・一五後、敗戦した日本から支配権を譲り受け、韓半島の三八度線以南に対する支配体制を確立したためである。この支配体制は、わが国を南と北に引き裂いた分断体制と癒着しており、分断体制と癒着した米国の支配体制によってわが国は東西冷戦に巻き込まれ、半世紀近く分断の悲劇が続くようになった。南と北に互いに異質的な理念と体制が存在するようになったのは、外部勢力による国の分断と、分断が持続する状況下で生じた結果である。

 事物と現家の本質を正しく把握しようとすれば、それが生じた原因を突き止めるべきであって、原因から生成した結果だけをもって判断してはならないであろう。韓半島の統一問題は、なによりも分断を招き分断を持続させている根本原因を除去する問題、言いかえれば外部勢力の介入を排除し、外部勢力の支配体制から脱して、民族の自主化を実現する問題であって、南北の体制の違いを解消する体制の単一化を実現することではない。

 もちろん理念と体制の違いが分断を深め、南北間の不信と誤解、対立関係を助長させた条件の一つになっていることは否定できない事実である。しかし、理念と体制の違いが統一を妨げる絶対的な条件ではない。社会政治体制が異なる国家間においても、その違いを乗り越えて友好親善を図っているのが、今日の国際政治の現実であるのに、まして一つの民族が、イデオロギーと体制の違いのために敵対し対決する理由はない。したがって、統一問題は理念と体制の違いを認めながらも、それを乗り越えて不信と対決を止揚し、民族の和解と団結をなし遂げることを意味する。

 このようにみれば、わが祖国の統一問題は体制問題ではなく、民族的次元の問題、すなわち民族問題であることが明らかとなる。言いかえれば、韓半島の統一問題は外部勢力の支配と干渉を終息させ、民族の自主権を確立する問題であり、同時に南北間の不信と対立を止揚し、一つの民族としての和合を図る問題といえる。統一問題の性格は、まさにこのように理解するのが正しい。民族の自主化を実現して民族の和解を図るという、この二つの側面を離れては、統一問題の性格を正しく認識することも、また統一運動を正しく展開することもできないし、統一の念願を果たすこともできない。

 この二つの側面は密接に連関しており、ここで基本となるのが、外部勢力の支配と干渉を排して民族の自主性を実現することである。「分割して統治する」という支配の論理に従って、外部勢力がわが祖国を二つに引き裂いたうえに冷戦イデオロギーを持ち込み、民族のあいだに不信と対決を増幅させてきた状況のもとで、反外部勢力自主化の実現なくして南北の接近と和解を図ることはできず、したがって統一をなし遂げることはできない。一方、民族の和解と団結は反外部勢力自主化闘争と相関関係にある。理念と体制が違うという理由で同じ民族を信じず憎悪し、イデオロギーが同じだという理由で外部勢力に依存したり支配と干渉を受け入れるかぎり、民族の自主権確立という統一の基本問題を解決することはできない。

 理念と体制の違いを乗り越えて、南北が一つの民族という立場から和解し団結するようになれば、それはすなわち民族自主の立場に立つことを意味し、全同胞の団結した力で分断の基本原因である外部勢力の支配と隷属から脱して、統一を促進することができるようになるのである。

 民族間題である統一問題の性格上の特徴を一層鮮明に理解しようとすれば、今日、地球的規模で起きている民族問題と比較、考察してみる必要がある。第二次大戦終結後から今日にいたるまで、国際社会で起こっている民族問題をみると、その様相は非常に複雑であるが、大きくは次のいくつかに区分できる。

 第一は、一国内の少数民族が展開している分離運動、脱中心化運動と関連して提起される民族問題である。

 現在起きている少数民族の分離運動または脱中心化運動が、民族的結合が固まって永くなったと思われていた西ヨーロッパで活発に展開されているのは、興味深いことである。スペインは十五世紀末のイザベル女王時代に統一を果たした国である。ところが、バスクとカタロニヤなど言語と文化、経済の面で一定の独自性をもった少数民族が、フランコが死亡した七五年を境に猛烈な分離運動を展開しはじめた。とりわけ過激なバスク分離主義者のテロ活動は、一時スペインの内政を非常に複雑なものにした。

 フランスの内情も似たようなものである。七〇年代に入り、フランスではとうの昔に消えてしまったプルトン語やオック語など、地方語の復活運動が活発に展開された。オック語についていえば、十三世紀に北フランスのカペー王朝が南フランスを征服した際、使用を禁じられて社会生活から消えた死語である。このような地方語が二十世紀後半になって復活し、フランス語とともに公式に使われるようになったのは実に驚くべきことである。

 イギリスからの分離を主張して頑強にたたかっている北アイルランド問題については、具体約に言及する必要もない。最近ではスコットランド人やウェールズ人のなかに反イングランド感情が高まり、さらに多くの自治権を要求していると伝えられている。

 旧ソ連邦をはじめ東ヨーロッパの多民族国家で、「ペレストロイカ」の波とともに起こりはじめた民族分離運動についていわなければならない。ソ連邦を構成する各民族共和国が自主独立を宣言したため、ソ連邦はあえなく消滅してしまった。ユーゴスラビアも、やはり内戦のために連邦制の土台が崩壊している。

 われわれの場合についていえば、わが民族は民族的結合が非常に強い単一民族として永い伝統をもっており、国内には血筋と言語を異にするどのような少数民族も存在しない。したがって、われわれには少数民族の分離運動はありえず、われわれが分離運動や脱中心化運動を展開する理由もない。反統一勢力が企図している分断の固定化は一種の分離運動といえるが、それは一つの民族、一つの祖国を、体制の違いを口実に二つに完全に引き裂こうとする策動であって、一般的な民族分離運動とその性格が異なる。

 第二は、帝国主義植民地支配の遺産による民族紛争問題である。

 代表的な例としてエリトリア問題が挙げられる。スエズ運河の開通とともに紅海沿岸に進出したイタリアは、「アフリカの角」といわれる沿岸部分を掌握し、その地域の部族を人海的に分断した後、植民地統治を行った。六〇年代からつい最近まで世界の耳目を集めたエチオピアーエリトリア戦争は、その火種がまさにイタリアの分割・統治の植民地政策にあった。現在は平和的に解決されたようにみえるが、最近までフランスやリビアが介入し、国際紛争に拡散する危険があったチャド内戦も、その原因を同じ脈絡から理解するのが正しかろう。シンハリ族とタミール族間の紛争で苦痛を受けているスリランカ問題も、やはりイギリスの植民地統治の遺産であり、パレスチナ問題も、その発生の原因と性格においては、この範疇に属する民族間題といえよう。

 しかし、われわれの統一問題――民族間題は、帝国主義の植民地統治から始まった問題ではない。わが民族は一時期、日本帝国主義の奴隷になることを強いられ、日本帝国主義はわが民族をずたずたに引き裂いて、民族としての存在を完全に抹殺しようとたくらんだが、わが民族は分裂したことはなく単一の民族性を固く守ってきた。そうしたわが民族の内部に、紛争が生じる歴史的な根源があるはずがない。問題が提起されたのは、日本帝国主義が敗北した後、この地に進入してきた他の外部勢力によって、国土と民族が分断されたからである。

 第三は、発達した資本主義列強の新植民地主義的支配によって引き起こされた民族間題である。

 第二次大戦後、二十世紀後半に入って民族解放運動が高揚し、第三世界が形成されるようになった。このような状況のもとで、世界各地で植民地を領有していた欧米の列強は、かつての侵略と支配の方式を、国際協力と援助という名の間接的な支配へと変えていった。いわば旧植民地主義から新植民地主義へと、植民地支配の方法を変えざるをえなくなった。このようなことから、新植民地主義的支配から脱しようとする第三世界の民族抵抗運動が起こるようになった。貧しい国と豊かな国との対立関係を現す「南北間題」は、第二次大戦後に新たに台頭した民族間題の国際的な表現だといえる。

 米国は八・一五後から今日まで、韓半島の南側地域で支配的地位を占めており、それが政治的・経済的な面で新植民地支配の様相を帯びているという意味において、われわれの統一問題――民族問題は、この第三の範疇の民族間題に属するといえる。しかし、米国の軍事力が軍事境界線以南の地域に配備されており、駐韓米軍司令官が韓国軍の作戦指揮権を掌握していることに端的に表現されているように、米国の支配体制は新植民地主義のなかでも独特な様相を帯びている。したがってわれわれの民族間題は、広い意味では外部勢力の新植民地支配によって生じた問題といえるが、具体的には他の国の場合とは性格を異にするとみなければならない。

 第四は、第二次大戦の終結後、東西冷戦の対決構造のなかで分断を招いた国の民族問題である。

 ドイツ、ベトナムとともに、わが国がこれに属する。第二次大戦後に国土と民族が両断され、二つの地域に相反する理念と体制が支配するようになった点においては、この三つの国は共通性をもっている。しかし深く掘り下げてみると、わが国の問題はドイツやベトナムとは明らかな差異がある。

 まず、ドイツは二回にわたって世界大戦を引き起こした国力の強い資本主義国であった。ドイツの分断は、再び隣国を侵略できないようにするための客観的な要請であったし、ドイツ国民もそれを受け入れた問題であった。それで連合国側に分割占領され、東西ドイツに分けられた。ベトナムは第二次大戦後、抗仏独立戦争で勝利を収め、ジュネーブ協定により北緯十七度線を境に南北統一選挙を行うことになった。ところが米国がフランスに代わって南部ベトナムに入り込み、かいらい政権をつくった。こうしてベトナムは分断された。

 わが国の分断は、その経緯からドイツやベトナムとは違う。日本の植民地であったわが国が、日本の敗戦によって独立するのはきわめて自然なことであった。だが、日本軍の武装解除のために、臨時的措置として米ソ両国軍が三八度線を境に南と北に進入するようになり、間もなく冷戦時代への突入によって三八度線が民族の分断線として固められた。韓半島の分断は、このようにわが民族の意思を無視した外部勢力同士の取り引きによるものであった。

 このようにみたとき、われわれの統一問題――民族間題は、二十世紀後半に新たに起こったさまざまな民族間題とは異なって、非常に特殊な性格を持った問題であり、ここに民族解放の課題を実現し、南北間の和解と団結をなし遂げなければならない、われわれの民族問題の性格上の特徴が顕著に現れているといえる。

 ベトナムとドイツは、それぞれ異なった方法で統一問題を解決した。われわれはどの道を進むべきか。一般的でなく特殊な状況で問題を解決するには、一般公式でない特殊な対応方式が求められる。われわれの統一問題――民族問題を正しく解決するには、他国の問題解決方式をそのまま取り入れるべきではなく、わが民族がおかれている現実を直視し、その中から問題解決の糸口を求める主体的な立場をとらなければならない。

 第二節 統一の理念問題

   祖国統一と民族主義

 全斗煥軍事独裁政権末期の一九八六年十月、当時の新民党・兪成煥議員の国会での統一に関する発言が問題になり、同議員が拘束された事件は有名な話である。衆議員の発言で問題になったのは、「国是は反共ではなく、統一でなければならない」、「分断国家では統一または民族という用語は、イデオロギーにまで昇華されなければならない」、「統一や民族という用語の貴重さを考えるならば、共産主義や資本主義の用語より上位に置かなければならない」という主張であった。

 慮泰愚政権発足後の八八年十月二十四日、国会外務統一委員会は国土統一院に対する国政監査を行ったとき、兪・前議員の国是論事件について許文通・前統一院長官と兪・前議員から証言を聴取した。この場で野党議員は、兪・前議員の国会発言を左傾・容共と規定した恨拠は何かと追求した。これに対し、許・前長官は、兪・前議員の発言が統一至上論であり、共産主義を自由民主主義と対等なものに格上げしようとした意図を含んでいると判断したが、このような所信はいまも変わらないと証言した。この証言に討して、兪・前議員は統一の基礎は民族主義の再発見にあるという点において、自分の国是論は何ら問題はないと反論した。

 この国会証言を通して、われわれは統一問題と関連して、注目しなければならない重要な問題点を確認することができる。それは、統一とは何に基づいた統一かという問題である。反共を国是としている韓国の執権勢力は、共産主義は自由民主主義とは絶対に両立することができない、消滅させなくてはならない思想であるとし、したがって統一は自由民主主義に基づく統一でなければならないという。一方、統一を国是に、民族至上の課題として認識する人にとっては、統一は資本主義や社会主義、または自由民主主義や共産主義よりも上位にある概念として、統一の基礎は民族主義をおいてほかにないと主張する。

 分断された国土の南と北に相反する理念と体制が存在しているわが祖国で、統一運動を推進し統一をなし遂げる理念は、自由民主主義でも社会主義でもない。自由民主主義や社会主義あるいは共産主義のうち、どれか一つを民族統合の理念として掲げることになれば、統一は軍事・非軍事のどの方法であっても、南と北のどちらかが相手側を吸収・統合することになってしまう。これは非現実的であるばかりでなく、民族内部に新たな対決と衝突を呼び起こす結果を招くことになる。

 そうだとすれば、統一運動を推進していく理念として、おのずと民族主義を考えるようになる。われわれの統一問題が体制の問題ではなく、民族問題である点を念頭におけば、なおさらそうだといえる。分断を強要している外部勢力の支配から脱して民族解放の課題を遂行し、イデオロギーと体制の違いによって互いに不信関係にある民族の和解と団結を図ることが統一問題であるならば、祖国の統一、民族統合の過程は民族主義に基づかざるをえない。

 では民族主義とはなにか。民族主義の定義についての論議をいちべつすると、一般に民族主義とは「価値体系で民族性を優位におく態度一般」という見解があり、ハンス・コンは「各個人の最高の忠誠が、当然のこととして民族国家にささげられなければならないと感ずる一つの心理状態」が民族主義だと規定している。これは民族主義を人びとの意識、一つのイデオロギー問題として把握しようとする立場である。

 一方、民族主義を単純なイデオロギーの次元にかぎるのではなく、実践領域にまで広げて把握しようとする主張もある。朴玄埰教授は、民族主義とは「一定の歴史的段階において、民族共同体が対外関係で自己――民族約なことを認識し、歴史の現場で自己を実現または貫徹すること」であると述べており(4)、韓培浩教授は「一つの国土国家のなかで、国民全体の名でという政治的名分を土台として、対外的には独立、対内的には統一を追求する理念および運動」であると規定している。(5)

 このような見解などを参考にして、民族主義を民族問題との連関のなかで把握するとき、民族主義とは一つの民族が自己を他と区別して意識し、その統一・独立・発展を推進しようとする思想または運動である、と一応理解して差し支えなかろう。しかし、これは民族主義に対するきわめて一般的な定義にすぎない。民族統合の理念、統一運動を推進させるイデオロギーとしての韓国民族主義の特徴を正しく理解するためには、次の二つの側面からの接近が必要である。一つは諸外国の歴史との比較のなかで韓国民族主義の特徴を把握することであり、もう一つは、わが民族史のなかで、分断以前の時期の民族主義の展開過程との連関から、分断時代の民族主義の位相を引き出すことである。

   分断時代における韓国民族主義の再定立

 まず、世界的に民族主義が展開されてきた過程との比較のなかで、韓国民族主義の特徴を考察する。

 民族主義が一つの思潮あるいは運動としていつごろから定立されたかについては、さまざまな説がある。歴史的には、近代民族国家または国民国家の成立とともに民族主義が発生し、国家を支えるイデオロギーの役割を果たしたとみる見解があるかと思えば、一方で民族主義の起源をそれ以前の時期に求めるべきだとの主張もある。

 しかし、ヨーロッパ特に西ヨーロッパにかぎってみれば、民族主義は近代資本主義の発達とともに発生したと理解するのが妥当であろう。もちろんヨーロッパでも、中性に民族主義の萌芽とみられる意識が形成されていた。特にローマ教皇とドイツ皇帝との関係が、一種の国際的な対立として現れたイタリアやドイツなどでも、ルネッサンス時代の人間的自覚が民族的な危機意識をもたらす場合が少なくなかった。そのうち、次第に十五世紀末から新たに国民国家または民族国家の発達が始まり、厳しい国際政治が展開されるようになった。このような状況下で、これらの国民国家はまだ絶対君主の統治下にあったが、中央集権的諸政策を通して民族的統合が促進され、国民が形成されていった。ヨーロッパでの民族主義は、このような近代同家の先達と国家間の相互対立という条件のなかで成長してきた。このような観点から民族主義の展開過程をみれば、次の三期に区分することができるだろう。

 第一期は、フランス革命から十九世紀前半までの時期で、ヨーロッパで自由主義と結合して民族主義が台頭し確立された時期である。この時期の民族主義は国民主義と同じ意味に理解する見解もある。

 封建主義に代わって資本主義が出現し、絶対主義的な貴族層が支配者の役割を果たした時期から、新興ブルジョワジーが主導勢力として登場するのと時を同じくして台頭した民族主義は、近代民族国家を成立させてヨーロッパの政治地図を塗り替え、政治・経済・文化の各領域で急速な発展の道を切り開いた。

 一七九二年、フランス革命当時のジヤコバン派領袖ロベスピエールが「諸国民は互いに協力しなければならない。他国民を抑圧する者は、それによってすべての国民の敵となる」と宣言したように、ヨーロッパの初期の民族主義はブルジョワジーが主導したが、それは自民族の自由だけでなく諸民族間の平和と協調をめざした民族主義であった。しかし、これはヨーロッパ圏内にかぎったもので、しかも相対的であり、世界の他の地域との関係では初めから排外主義、支配主義的であった。

 第二期は、十九世紀後半から二十世紀前半、第二次大戦にいたる期間であり、ヨーロッパの民族主義が露骨な排他主義、侵略主義へと転換した時期である。この時期の民族主義は国家主義と同じ意味に解釈されている。

 ヨーロッパで民族主義が反動化する傾向は、フランスでロベスピエールが失脚しナポレオンが執権するや、国民にショービニズムを鼓吹して対外侵略の道に進んだように、十八世紀末から十九世紀の初めにかけて現れた。「多くの国民が自国内の問題には道徳的であるが、国外問題についてはきわめて非道徳的である」と慨嘆したドイツの哲学者カントの言葉は、この時期に否定的な面が顕著に現れた民族主義の状況を指摘したものといえる。

 しかし、ヨーロッパの民族主義が本格的に反動化しはじめたのは十九世紀の後半からである。侵略的な性格を徐々にあらわにしはじめたヨーロッパの民族主義は、資本の集積と集中が加速化し、膨張した資本の力を背景にヨーロッパ圏内から緒み出して、アジアとアフリカの広大な地域への全面的な征服の道に進んだ。ヨーロッパによる世界の植民地分割時代が始まったのである。この排他的な民族主義の極端な形態が、第一次大戦後にイタリアとドイツと日本に現れたファシズムである。

 第三期は、第二次大戦後から今日にいたる期間で、帝国主義、植民地主義に対抗する新たな民族主義、第三世界の民族主義が確立されていく時期である。

 第二次大戦後、澎湃と立ちあがった第三世界の民族、かつて西ヨーロッパの植民地支配下にあった諸民族の解放闘争は、世界の政治地図を再び塗り替えた。資本主義列強の植民地統治から解放と独立をかち取ったのである。こうして第三世界が形成された。第一次大戦が終わったころは、世界人口の約半分が西側帝国主義の支配下にあったが、第二次大戦後、数十年をへた今日では、世界人□のほとんどが独自的な国家を形成するようになり、「暗黒の大陸」といわれたアフリカでも非植民地化が実現されるようになった。

 第二次大戦以前にも弱小民族、被植民地民族の解放闘争が展開され、民族解放闘争を推進するイデオロギーとして民族主義が成長していた。しかし、それが本格化したのは第二次大戦後のことである。第二次大戦後に活性化した民族解放闘争を推進したのは、帝国主義、植民地主義に抵抗する民族主義であったし、それによって少数の先行した民族、主にヨーロッパと米国が世界を支配する時代は終わり、彼らの支配下にあった多数の被圧迫民族が、自己の運命を自らの手で掌握し前進していく歴史の新しい時代が開かれるようになった。この時代的潮流を反映した第三世界の民族主義は、民族間題の解決に新たな段階を切り開き、人類史を前進させるうえで大きな役割を果たしている。

 以上のような世界的な民族主義の展開過程からみると、韓国の民族主義はどのように位置づけられる民族主義であろうか。われわれの民族主義を西ヨーロッパの文化から輸入されたものだとみる見解があるかといえば、第三世界の民族主義に属するとの主張もある。しかし、どの国の民族主義もその民族史の基盤から出発するものであるため、われわれの歴史的現実に根を下ろし、そこから出発した韓国民族主義は、西ヨーロッパの民族主義はもちろん、第三世界の民族主義ともいったん区別してみるのが正しいと思う。

 この点を確認するためには、韓国民族主義の起源から考察しなければならない。民族主義を一民族が自己を他と区別して意識し、統一・独立・発展を推進しようとする思想または運動であると理解するとき、封建李氏朝鮮の鎖国の壁にはばまれて、中国や日本など周辺にあるいくつかの国だけが外の世界とばかり思っていたところへ、やがて中国を通じて西洋というところに発達した文明世界が存在していることを知り、それに刺激されて興った実学派をわが民族主義の萌芽とみることができる。李成桂による建国以来、数百年間もそれなりに安定を維持してきた李氏朝鮮社会が、豊臣秀吉の二度にわたる戦乱をへた後、次第に矛盾を露呈しはじめ、それが度重なる民乱として現れた。このような時期にヨーロッパ文化の一端と接触するようになり、ついに近代化の社会的必要性が提起されたのである。そのイデオロギー的表現として実学思想が興ったとみられる。それは、実学派の重鎮である朴趾源と丁若鏞などが活躍していた時期に合わせてみても、だいたい十八世紀末から十九世紀の初めで、ヨーロッパで民族主義が確立した時期と一致する。したがって、二十世紀後半になって激しく起こった第三世界の民族主義と、韓国民族主義を区別しなければならない理由がここにあるといえる。

 もちろん実学は韓国民族主義の萌芽にすぎず、それが一つの理念または運動として定立されていくのはずっと後のことである。内部からの近代化への民族的覚醒に外部勢力の促入が作用し、民族主義的な民衆の息吹が激しく噴き出しはしめるようになったのは、欧米諸国が韓半島に押し寄せて脅域を加えはじめた時期からとみなければならない。すなわち一八六六年のシヤーマン号事件、フランス艦隊の江華島侵攻事件、一八七一年の米艦隊の江華島侵攻事件があった時期から民族主義が本格的に台頭し、発展するようになるのである。

 一方、われわれの民族主義が、封建時代から単一の民族国家を形成し暮らしてきた悠久の民族史の流れのなかから、近代化を通した民族の発展をめざす動きとして起きたと理解するとき、封建的分散性を克服して初めて統一的な民族国家を成立させ、それを支えるイデオロギーとして発生した西ヨーロッパの民族主義と、われわれの民族主義とは明白に区別しなければならない。ただわれわれの場合、十九世紀末から二十世紀初めにかけて近代化をめざしたわが民族の志向が、一歩先んじた資本主義列強の侵略によって挫折してしまっただけのことである。

 それでは八・一五以後の分断時代の民族主義を、どのように理解すべきであろうか。言うまでもなく、それはわれわれの祖国が分断される以前から展開されてきた民族主義の延長であり、継承とみなければならない。

 先に言及したように、近代化をめざした実学派運動によって芽生えた韓国民族主義は、李朝末期には外部勢力への抵抗に集中せざるをえなかったし、日本帝国主義時代には植民地民族主義として反日民族解放の課題を前面に掲げるようになり、それは一九三〇年代に入って絶頂に達した。八・一五は、われわれにとっては、この地を支配し主人のように振る舞う外部勢力の交代劇にすぎなかった。日本に代わって米国が支配者の地位を占めるようになったのである。このような状況のもとで、八・一五以後の民族主義も、以前と同じく反外部勢力闘争を重要な課題とせざるをえなかった。

 しかし分断時代の民族主義は、八・一五以前の民族主義と区別しなければならない点もある。それは、従来の民族主義は民族の統一が保全されている状況下で、主に反外部勢力民族解放を基本課題としていたが、八・一五以後には分断反対と祖国統一が基本課題になったという点である。具体的には祖国統一を至上の目標に掲げ、その実現のために反外部勢力自主化・反ファッショ民主化の課題を遂行しなければならなくなった。外部勢力によって国土と民族が両断され、分断体制下で独裁権力が出現するようになったため、八・一五以後の韓国民族主義のまえには、自主・民主・統一の達成という相互に関連する三つの課題が提起されたのである。これが分断時代の韓国民族主義が抱えている特異な点だといえる。

 しかし、八・一五の直後には、学界や言論界で民族主義についての論議がまったくなかったわけではないが、歳月が流れるにしたがって次第に下火になり、五〇年代にはいり四月革命にいたるまでは、民族主義は姿を消していたといっても過言ではない。

 このようになったのにはいくつかの原因がある。米国人的意識構造に染まった李承晩のような人物が権力を握り、民族主義的要素を一種の反米的な傾向として異端視してきた事情とともに、より重要なのは韓米関係に対する韓国民衆の特異な認識と態度を挙げなければならない。八・一五によって日本帝国主義の植民地の束縛から解かれた韓国人にとって、解放軍の帽子をかぶりこの地に入ってきた米軍は、それこそ「解放の使徒」であり「恩人」に見えた。当時の韓国民衆はまだ米国という国をよく知らず、韓米関係の実体を認識できなかった。そこで韓国人は、童話のなかに出てくる無邪気な主人公のように、米国に対して片思いをしすべてをささげた。韓完相教援が指摘した米国に対する韓国人の「四十年の片思い」のなかでも、恋をしはしめた熱烈な時期であった。(6)

 このような状況のもとでは、民族主義の台頭は困難であった。それから四月革命を経験するが、民族主義が復活するのはさらにずっと後のことであった。具体的には八〇年五月、光州事態という凄惨な事件を体験した後に米国の実体を認識し、それに基づいて自主・民主・統一のための理念として民族主義が論議され、その理念的構図が確立されるようになったのである。

 以上のように、韓国民族主義は八・一五以前の植民地統治時期までは粘り強く展開されてきたが、八・一五以後の特殊な条件のもとで一時的な退潮期をへて、七〇年代から八〇年代にいたって、民族分断の深まりという歴史的背景から新たな意味をもって復活するのである。そのような意味で、八〇年代の韓国民族主義の台頭を「統一のための民族主義のルネッサンス」と述べた宋建鎬氏の指摘は正しい。彼は、このように復活した分断時代の民族主義を、国民主義と厳格に区別する観点から、韓国の分断の現実下では民族主義と国民主義とは著しい見解の違いがあると力説した。民族主義の立場からみれば北韓の住民も同民族であり、南北を通した民族国家を樹立しなければならないという民族的課題を意識するようになるが、国民主義の立場に立てば、韓国の統治圏外にある北韓の人びとは、たとえ血筋と伝統、文化が同じであっても同一の国民ではなく、われわれの敵でしかないという考えに到達するというのである。

 このようにみれば、分断時代の韓国民族主義は思想と体制の違いを乗り越えて、南北がともに同じ民族であるという認識に基づき、祖国統一を至上の課題として打ち出す理念であり、運動であるといわなければならない。祖国統一をめざさない民族主義、祖国統一とは無縁に論議される民族主義は、分断時代に要請される民族主義ではない。現在にも過去にも韓国社会の一角に、民族主義を論じながら統一問題には目をつぶるか、統一と反する論議を展開する人びと、宋建鎬氏の表現を借りれば、国民主義の立場から民族主義論を展開する人びとが少なからずいるということを指摘しておく必要がある。

 再度強調すれば、南北を合わせて一つの民族とみて、民族の利点を最高の価値と認識する民族主義、周辺強大国のわが民族の統一問題に対する姿勢がどのように豹変しようとも、また干渉がひどかろうとも、民族の主体的力量で自主的に祖国を統一しようとする民族主義、これが分断時代わが民族主義の真の位相といえる。結論的にいえば、分断時代の韓国民族主義は自民族をなによりも貴重に思う精神であり、民族がもっている創造的エネルギーを固く信じ、それを誇りに思う民族自尊の理念、民族の運命を自らの力で切り開いていこうとする民族自主の思想である。このような意味で、分断時代の韓国民族主義は民族中心主義または民族優先主義といえる。

 もちろんこのような立場と観点は、自民族の利益だけを追求して他民族の利益を侵害する排外主義、国粋主義とは無関係である。よく韓国で民族民主運動勢力、とりわけ学生らが、反米自主化、反分断統一闘争に立ち上がるたびに、決まって米国の政界や言論は「韓国の若者のつまらぬ民族主義的行動」と軽蔑調で論じながら、自主・民主・統一のためのわれわれの民族主義を拝外主義と罵倒している。米国がこのように韓国民族主義に嫌悪感を抱くのは、分断時代の韓国民族主義が正しいもの、進歩的であるという事実を証明してくれるものである。われわれの統一運動はこの民族主義を基礎にしなけばならない。

   韓国民族主義に含まれる第三の道

 半世紀近く互いに異なるイデオロギーと体制のもとで分断を強いられてきたわが祖国の統一は、第三の道によってなし遂げられなければならない。南北の両体制のどちらかに統合することを民族の進路として固執すれば、統一は達成されず分断は永続し、民族の運命は外部勢力によってもてあそばれ、同民族相殺の悲劇を引き起こして全同胞の破滅を招くことになる。決して、南の体制か北の体制かという二者択一の道に固執してはならない。統一祖国を建設するためには、南と北を超越した第三の道を選択する以外にない。

 社会政治的に「第三」というとき、それはいろいろな意味に使われる。

 まず、順次性の意味をもった「第三」という槻念がある。例を挙げれば、第三身分のようなものである。第三身分とはアベ・シェーイェスが初めて使った言葉である。彼は封建社会で僧侶、貴族などの特権階級の身分に対して、平民を第三身分と称した。この時からこの言葉が広く怯われるようになった。この場合、「第三」とは順序を意味している。僧侶が第一身分、貴族は第二身分で、この二つの身分と対立するブルジョワジーをはじめ小商工人・労働者・農民で構成される平民が第三身分に当たるというのである。

 次に、「第三」は当事者でない部外者の意味に使われることもある。互いに討立し紛争関係にある人や集団、国家の場合、「箭三者」や「第三国」は紛争両当事国との関係で、中立的で客観的な位置にいることを意味する。「第三党」というときは、前記の場合と類似しているが少し違った意味で使われている。国会である議案を議決するとき、賛否両論の勢力がほぼ接近している場合、その問題の議決にあたって、いわゆるキャスティングポートを握ることができる少数政党を「第三党」と称している。

 さらに、「第三」は政治的中間の位置にいる意味でも使われることがある。部外者の位置にいるか、キャスティングポートを握れる位置にいることとは違った意味で使われる。例えば、第三勢力とは右翼と左翼、保守と急進が対立するなかで、中間的な立場をとる政治勢力のことをいう。この言葉は一九四七年、フランスのレオン・プルムが右翼の国民連合と左翼の共産党を除外した中間勢力(社会党、人民共和党、急進社会党など)を結集して組閣し、その内閣を第三勢力に基盤をおくと言明したことから始まっている。その後この言葉は一般化され、今日では権力構成で中道とか中道右派・左派といういろいろな言葉が出てきている。

 それでは、わが祖国に当てはめて、第三の道が最善の現実的な統一への道だというとき、この「第三」とはなにを意味するのかについて考察してみることにする。

 それが計算上の三番日の意味でないことはいうまでもない。統一の道で第一の方案があり、それとは別に第二の方案があって、それらを捨てて第三の方案を選ぶという意味ではない。第三の統一の通が、南でも北でもない部外者の立場、あるいはキャスティングポートの立場からの統一の道を意味することでもない。民族の一構成員として自分の祖国の統一問題を論じながら、部外者の立場というのは許されないことであり、ましてや国会でほぼ力が接近した二つの政治勢力が対立していて、第三党が決選投票に加わり議決するようなやり方で統一問題を解決することはできない。

 統一のための第三の道は、南北が対立している状況のもとで、南側でも北側でもないという意味でもない。もちろん祖国が分断している現実では、南と北のどちらにも傾かない公正な態度を取る必要はある。しかし祖国が分断され、分断が五十年近くも続いている事態の本質を分析もせず、ただ単に抽家的に南北が対立関係にあるので、双方に対し「公正な中道派の立場」を守らなければならないということだけでは、絶対に統一の道は開かれない。そのような立場にたつ第三の統一の道とは、観念上あるいは論理的には一応可能かもしれないが、具体的、現実的には成立しえない。

 現実的に可能な第三の統一の道は、わが国の統一問題は、分断と分断持続の原因である外部勢力の支配と干渉から脱して民族の解放を実現し、互いに異なる体制のもとで暮らしている南北間の不信と対立を解消して、民族的和解と団結を図る問題である、という根本性格から出発しなければならない。したがって、統一のための闘争は南北間のイデオロギーと体制の対決ではなく、統一勢力と反統一勢力との闘争である、という本質を把握することによって探ることができる。

 在米の崔益煥教援は、統一の目的や分断という歴史的現実とは関係なく、南北の二つの対立する統一提案について、そのどちらの側でもない第三の道を追求するのは、形式主義的な問題接近方式であると批判した。さらに崔教授は、具体的で実質的な第三の統一の通は、南北のどちら側が出した統一方案かというよりも、それがどれほど公正に南側と北側の利益をともに専重しているかによって決定される問題であり、そのような公正さは、統一志向と分断志向の主張を同じく取り扱う公正さではなく、あくまでも確固として統一をめざす公正さ、統一をめざしながら南北のどちら倒にも一方的に負担を強要しない、そのような公正さであると主張した。(8)

 結局、統一のための第三の道は、次のような内容を盛り込まざるをえない。

 第一に、文字どおり統一への道――再び一つになる祖国に向って進む道だということである。わが民族が統一か分断かの分かれ道で、あの道でもなくこの道でもない第三の選択はありえないし、実際にそのような道は存在しないのだ。

 第二に、宙に浮いた統一論ではなく、分断の現実に根を下ろした実質的で可能な統一論ということである。統一のための第三の道は、だれかが一夜にして考案した奇抜な考えではなく、数十年の分断史を生きてきながら、統一の道を求めて模索し苦悩してきたこの国の民衆の、統一意思の結晶であるということを強調する必要がある。

 第三に、南北双方対して公正さを期する統一の道だということである。この公正さは南と北に現存するイデオロギーと体制を乗り越え、南と北を同じ民族とみなす立場から出る公正さである。したがって、南北のどちらかに損害を与えるか、譲歩と犠牲を強要する統一ではなく、両方の利益を同じく保障する統一をめざす公正さである。しかし、南と北に公正に接するということは、原則のない公正を意味するものではない。統一という民族共同の利益を判断の基準にして、南北双方に対して正しいものは正しい、間違っていることは間違いだと評価し、正しいものは支持し主張する公正さである。

 分断時代の韓国民族主義は、以上のような第三の立場が内包されているといえる。八・一五以後に一時姿を隠していたが、民族に襲いかかる危機によって覚醒し復活した韓国民族主義、統一を第一目標にする韓国民族主義は、第三の立場と相通じ合うものである。さらに、南北のイデオロギーと体制の違いを乗り越え、その上にたつ韓国民族主義は第三の立場を守らざるをえないし、したがって異質的な南北の両体制を一つに結びつける共通の基盤を見つけ、南北の統一を推進する機能を果たすことになる。

 韓国民族主義が統一のための第三の道をめざすということは、民族主義の観点から統一問題をみている学界と宗教界の見解のなかにも明白に現れている。その中から代表的な主張と流れをみると、次のとおりである。

 数年前、逝去した韓国キリスト教界の元老、金在俊牧師は、朴正熙維新独裁政権の圧政によって民族の前途に暗雲がたれこめていたとき、海外に出て民主・統一運動に献身しながら、第三の統一の道を模索した。彼はこのように主張した。「南北が分断から統一へ向かう歴史的な意味を韓国教会は考えている。それは単に断ち切られたものが再びつながるという原状回復だけを意味するものではない。このような再結合は、国際的な対立のなかで未来の世界史を志向する第三の、より高い次元での統合を模索することだと、おぼろげながら韓国教会は意識している。」(9)金牧師のこの主張は、複雑で混沌とした現実のなかでも、その底に流れている歴史の潮流を見通したキリスト者の良心、民族知性の叫びであった。

 八〇年代に入り、神学者の金敬宰教援は、七〇年代後半の民衆神学を土台にした韓国キリスト教の活動を回顧しながら、キリスト教は「南北民衆がともに共有し参加できる政治・経済・社会の第三の統一理念の追究に関心をもち、目を開くようになった」と述べた。(10)そして、八四年に結成された「民主統一国民会議」は八五年一月、機関誌「民主・統一」の創刊号で、わが民族が統一をなし遂げるということは「南と北にそれぞれ対立し存在する冷戦イデオロギーを主体的に克服し、南と北を統一させることのできる新たなイデオロギーを創出することを意味」すると強調した。第三の統一の道は学会でも主張されている。韓完相教援は、統一のためには東西の対立を創造的に克服しうる民族的な新しい道が必要であり、東西を弁証法的に止揚させる民族の力が要請されている、と述べた。(11)

 八七年六月の民衆大抗争によって情勢に変化が起きた後には、さらに具体化された第三統一の論議が活発に起こりはじめた。ソウルの郷隣(ヒャンリン)教会の洪根洙牧師は、イデオロギーと体制の違いがあるうちは平和的統一は不可能だ、という執権層とその周辺の見解に反論し、そうではない「第三の道」があることを力説した。(12)北韓関係のある専門家は、北韓の研究に臨む姿勢について、一方的な肯定でも否定でもない現実的立場、半分の国ではなく一つの国の立場、体制の観点ではなく民族の観点が要求されると発言し、学界の関心を集めた。この「現実的立場」、「一つの国としての立場」、「民族の観点」とは、まさに第三の立場である。

 ここに引用したいくつかの主張は、民族の良心をもって統一問題を真摯に探究するなら、だれもが類似した考えに到達するようになることを示している。

 注

(1)李世基「民族共同体統一方案」(『政党・社会団体などの統一論表』国会統一政策特別委・一九八九年十月発刊)

(2)朴錫均「統一問題に関する国会論議」(『政党・社会団体などの統一論議』国会統一政策特別委・一九八九年十月発刊)

(3)張俊河(抗日闘争に参加。民主統一党最高委員・言論人。一九七五年八月十七日没)「民族主義者の道」(『シアレソリ』一九七二年九月号)

(4)朴玄埰(経済学者・朝鮮大学教援)「分断時代の韓国民族主義の課題」(宋建鎬・姜萬吉編『韓国民族主義論Ⅱ』創作と批評社・一九八三年)

(5)韓培浩(高麗大学教授)「韓国イデオロギー論」(日本語版・成甲書房)

(6)韓完相(ソウル大学教授・社会学者)「四十年の片思い」(『月刊朝鮮』一九八五年一月号)

(7)宋建鎬(言論人・『ハンギョレ新聞』会長)「統一のための民族主義のルネッサンス」(月刊誌『統一評論』一九八五年五月号)

(8)崔益煥(在米韓国人学者)「第三の道」(『資料・民族統一』東京海外同胞学者民族統一研究所発行・一九八九年・No.15秋号)

(9)金在俊(韓国神学大学名誉学長・民主守護国民協議会共同議長。一九八七年一月二十七日没)「韓国教会はなぜ統一に立ち上がったか」(月刊誌『世界』一九七九年十一月号)

(10)金敬宰(韓国神学大学教授)「分断時代のキリスト教と民族運動」(『民族主義とキリスト教』民衆社・一九八一年)

(11)韓完相「心の三八度線を取り除かなければ」(『新東亜』一九八五年十二月号、連載コラム)

(12)『ハンギョレ新聞』(一九八八年九月二十二日付、洪根洙牧師との会見記事)