韓国で「在日韓国民主統一連合の名誉回復と帰国保障のための対策委員会」が結成される

  郭議長があいさつ文を送り、結成式で朗読

  入国を妨害された韓統連に代わって、吉松繁牧師が参加、あいさつ

  代表に姜萬吉氏ら各界人士、結成宣言文を採択、「名誉回復」を要求

  国内の各界人士が六日、韓統連への「反国家団体」規定を取り消して名誉を回復し、会員らの本国自由往来の権利を獲得するために「在日韓国民主統一連合の名誉回復と帰国保障のための対策委員会」(韓統連対策委)を結成し、共同代表に姜萬吉・高麗大学教授らを選出した。また政府に韓統連の反国家団体規定の解除と自由往来の保障を求める結成宣言書を採択した。韓統連の郭東儀議長は結成式にメッセージを送り、歴代政権が韓統連を「反国家団体」に規定して弾圧してきた不当性を指摘し、現政権が名誉回復と自由往来の英断を下すよう強く求めた。「韓統連の名誉回復と自由往来」を求める組織が公然と結成されたのは歴史的な出来事であり、国家保安法廃止闘争とともに民主化運動を大きく前進させるものと思われる。

 韓統連対策委はソウル市内の世宗文化会館で国会議員、知識人、宗教家、弁護士ら各界人士百余人が参加して開かれた。経過報告の後、韓民統の結成から金大中大統領の救出運動、韓統連への組織改編や汎民族大会など、韓統連の活動を紹介したビデオが上映され、参加者の強い連帯感を呼んだ。

 韓統連代表団(団長・金政夫事務総長)に代わって出席した吉松繁牧師は、「わたしが見た韓統連」と題するあいさつで、七三年や八〇年に金大中大統領が危機に陥ったとき、日本や世界の民主勢力に働きかけて国際的な救出運動を行ったのは韓民統(当時)だと紹介し、「韓統連の一日も早い名誉回復と出入国の自由の保障」を訴えた。

 郭議長のメッセージが紹介され、郭議長はこの中で「ノーベル平和賞を受賞した国で、今日も民主・民権が公然と踏みにじられているのは国の恥」だとし、「対策委の皆さんや多くの国内同胞の労苦が結実し、皆さんとわれわれが感激的に会う日が遠くなく来ると確信する」と力強く述べた。

 結成式では、顧問に故文益煥牧師の夫人・朴容吉氏(統一を迎える七千万同胞の集い名誉理事長)と李敦明弁護士、共同代表に姜萬吉高麗大教授、高ヨング弁護士、金勝勲神父、李昌馥議員、洪根水牧師、執行委員長に李基旭弁護士、事務局長にユ・ハンボム氏を選出し、組織、広報、財政の各委員会を置いた。

 対策委は結成宣言書で「南北の和解のなかで総連同胞まで大韓民国を訪れているが、民団出身で大韓民国の国籍を持つ韓統連会員の故国訪問は許されていない」とし、「わい曲された歴史を正すことが、海外で祖国の民主と発展のために努力してきた同胞に対する最小限の道理」だと主張した。そして政府に対して@反国家団体規定の取り消しと名誉回復A韓統連会員の自由な故国往来の自由B国家保安法の即時撤廃を要求した。

 結成式では、国会決議の請願や青瓦台(大統領官邸)への陳情、主要な行事への韓統連招請、広報活動などの事業計画を決定した。(民族時報 第932号 2000.12.11)

 

在日韓国民主統一連合の名誉回復と帰国保障のための対策委員会結成式

▲ 日時:2000年 12月 6日(水) 午前11時〜12時30分

▲ 場所:世宗文化会館 カンファレンスホール

在日韓国民主統一連合の名誉回復と帰国保障のための対策委員会

ソウル市瑞草区瑞草洞 1543-12 チャンセンビル5階 法務法人 創造

TEL 02‐594−2751 FAX 02‐588−4415

 

経過報告

2000.10.2  17人の人士が集まって、韓統連の名誉回復と帰国保障、これを推進していく対策委員会の必要性に       共感し、対策委員会構成のために7人で実務委員会を構成する。

2000.10.11  第1回実務委員会開催。5人内外の共同代表と150人内外の対策委員をおくことにする。

2000.10.19  「韓統連名誉回復申請書」提出。

2000.10.20  第2回実務委員会開催。対策委員会の提案書を採択する。

2000.10.26  第3回実務委員会開催。執行委員長をはじめ、実務陣の人選をする。

2000.11.2   第4回実務委員会開催。結成式を12月6日、世宗文化会館で開くことにする。対策委員事務室を「        法務法人 創造」に置くことにする。

2000.11.9   第5回実務委員会開催。事業計画を論議する。

2000.11.10  姜萬吉高麗大名誉教授、高ヨング弁護士、金勝勲神父、李昌馥議員、洪根洙牧師の5人に共同代         表を確定する。また顧問には李敦明弁護士、朴容吉長老になってもらうことにした。

2000.11.14  韓統連に結成式参加を要請する招請状を発送する。

2000.11.16  第6回実務委員会開催。

2000.11.24   第7回実務委員会開催。

2000.11.29   第8回実務委員会開催。

2000.12.5    現在、150人の人士が対策委員会に参加。

 

役員紹介

■顧問

  朴容吉(統一迎え7千万同胞の集い名誉理事長、故文益煥牧師夫人)

  李敦明(弁護士)

■共同代表

  姜萬吉(高麗大教授)

  高ヨング(弁護士)

  金勝勲(神父)

  李昌馥(国会議員)

  洪根洙(牧師)

■実務委員会

    李基旭(執行委員長、弁護士)

  林鍾任(組織委員長、弁護士)

  高ジョンホ(組織委員、自主平和統一民族会議事務局長)

  金ソンマン(組織委員、ハンギョレ家族の出会い委員会事務総長)

  韓ホング(広報委員長、聖公会大教授)

  安ヨンミン(広報委員、月刊マル記者)

  金ジングック(財政委員長、弁護士)

  全ヘチョル(財政委副委員長、弁護士)

  ユ・ハンボム(事務局長、反腐敗国民連帯企画室長)

 

事業計画

1.法的対応など

1) 行政訴訟

  韓統連の会員に対する正式旅券が出ない場合、旅券発給拒否取り消しの請求訴訟を提起

2) 国会請願

  韓統連の名誉回復と自由な祖国往来を保障する国会次元の決議を追及

3) 大統領府への陳情書の提出

4) 共同代表と大統領府実務者との協議を経て、大統領との面談を推進

2.「在外同胞の民主化運動と統一運動」を主題にした講演会と学術大会の開催

3.国内の主要な市民団体の行事に韓統連幹部を招請する

4.広報事業

1) 毎日インターネットだよりを送る

2) 資料集の発刊

3) インターネット愛好者の世論作り

4) キャンペーンの展開

5.その他、韓統連の名誉回復と帰国保障のための諸般の事業

 

在日韓国民主統一連合の名誉回復と帰国保障のための対策委員会結成宣言書

 われわれはきょう、この30年間海外で、分断された祖国、韓国の民主化のために苦労しながらも祖国を訪問することができない人々、在日韓国民主統一連合(韓統連)の名誉回復と帰国保障を実現するためにこの場に集まった。6月の歴史的な南北首脳会談は、南北に分かれた離散家族の再会と往来の門を開け、北韓同胞の要人も南韓を訪問した。南と北の和解のなかで、いまや朝鮮民主主義人民共和国公民の総連同胞までも大韓民国を訪問している。しかし、民団出身で大韓民国の国籍を持つ韓統連会員の故国訪問は許されていない。

 韓統連が30年間歩んで来た道には、苦悩に満ちた在日同胞の涙の歴史がすべて含まれている。日本で差別された同胞に民族主体性を持たせ、祖国に対する関心を高める事業を続けてきた韓統連の前身の韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)は、1973年8月に結成された。韓民統の初代議長の内定者は、まさに金大中大統領だった。しかし、韓民統の結成を数日前にして、朴正煕政権は金大中氏ら致事件を起こし、韓民統は金大中救出運動で活動の第一歩を踏み出さざるをえなかった。

 1978年に朴正煕独裁政権はスパイ事件をねつ造しながら、民団人士で構成された韓民統を北韓の指令を受けて結成された反国家団体とのらく印を押した。続いて、1980年に全斗煥政権は金大中大統領を「反国家団体である韓民統の首かい」ときめつけ、内乱陰謀事件をねつ造して再び彼を殺そうとした。これに対して韓民統は金大中大統領に対する二回目の救出運動を展開した。守旧勢力は、1997年の大統領選挙当時にも金大中大統領を韓統連と結びつけ落選させようとして写真を改造するなど、執ように韓統連を陥れようとした。祖国から日本を訪問して、民族の主体性を守ろうとする在日同胞を訪ねる多くの人は自然に韓統連の会員に会うが、公安当局は彼らをスパイにでっち上げてしまった。このように、韓統連という名前は守旧反動勢力にはあらゆるねつ造スパイ事件を作り出す魔法の杖(つえ)だった。総連同胞らの自由往来が実現した今、守旧勢力が執ように韓統連に食いつくのも、分裂と対立をこえて和解の新時代へと流れるとうとうとした流れを引き戻そうとする迷妄を捨てられないでいるからだ。

 公安当局は言う。故国を訪問したければ、韓統連を脱退して反省文を書けと。いったい韓統連が何を反省しなければならないというのか。軍事政権に抵抗して反独裁民主化闘争を行ったことを反省しろというのか。日本であらゆる差別と闘って民族主体性を守り、民族の統一のために闘争したことを反省しろというのか。でなければ、金大中大統領を死の窮地から救い出すために努力したことを反省しろというのか。

 いまや正さなければならない。陰湿な密室で、愛国的な海外同胞と民主人士に反国家人士とらく印を押してスパイにねつ造した、恥ずべき歴史を正さなければならない。父母の臨終にも会えず、遺骨になっても祖先の墓地に埋葬することさえ許さない反人権的な故国訪問禁止を続けてきた、わい曲された歴史を正さなければならない。それだけが海外で祖国の民主と発展のために孤独に努力してきた同胞に対する最小限の道理である。

 最近、政府は、愛国同胞の組織である韓民統・韓統連を反国家団体とねつ造した独裁者・朴正煕の記念館建設を国庫で支援するとの方針を明らかにした。そうしながらも、政府は「民主化運動関連補償法」を制定し、反独裁闘争を繰り広げた人々の名誉回復はもちろん、彼らの受けた被害に対する物質的な補償をすると言っている。われわれは独裁と反独裁が同時に記念の対象になることはできないと信じる。われわれが本当に記念しなければならないのは、独裁者・朴正煕ではなく、維新の圧制に抗して闘ってきた民主化運動である。われわれは、金大中政権の包容政策が北韓と総連にまで及んだ今、われわれと同じ国籍の韓統連会員らが故国を訪問しようとしても訪問できないこのまちがいを悲しみながら、韓統連があれほど助けようと頑張った金大中氏が大統領の政府に要求する。

 1.政府は、韓民統・韓統連に対する反国家団体規定を取り消し、韓統連の名誉を回復せよ。

 1.政府は、大韓民国国籍を保有した韓統連会員らの自由な故国往来を保障せよ。

 1.政府は、容共ねつ造の道具である国家保安法を即時撤廃せよ。

 2000年12月6日

在日韓国民主統一連合の名誉回復と帰国保障のための対策委員会

 

在日韓国民主統一連合 名誉回復申請書

 

(訳注) 在日韓国民主統一連合(韓統連・郭東儀議長)は2000年10月19日、1978年の「金整司事件」で韓民統(韓統連の前身)が「反国家団体」と判示され不当に名誉を棄損され、韓国への自由往来が妨げられていることと関連して、「民主化運動関連者名誉回復および補償審議委員会」(李愚貞委員長)に名誉回復の措置をとるよう申請した。

 同委員会は7月、1969年の三選改憲の発議以後、民主化運動に関連して犠牲になった人々の名誉回復と補償を目的に制定された「民主化運動関連者名誉回復および補償などに関する法律」の施行令に基づいて設置されたもので、8月10日から被害者申請の受理を始めている。

 名誉回復申請は、韓統連関連者が韓国に入国できないため、「民主社会のための弁護士の集い」(民弁)の弁護士を代理人として行われた。

 民弁の弁護士は、申請するに際して「申請代理人意見書」を添付。意見書は「韓民統は、1973年8月に朴正煕政権の過酷な弾圧を避けて海外で亡命生活をしていた金大中大統領が主導的に参与して結成した団体」だと規定した。

 また意見書は「金大中氏ら致事件以後、韓民統―韓統連が被った謀略と弾圧は、当時の野党指導者だった金大中氏が独裁政権から被った謀略と弾圧の歴史と一致」すると明らかにした。

 80年の全斗煥政権による「金大中内乱陰謀事件」裁判で、「当時、金大中大統領の韓民統と関連する論旨のなかのひとつは、まさに韓民統は祖国の民主回復と平和統一のための団体であるということ、すなわち韓民統の反国家団体規定に対する反論だったことは、われわれにとって示唆することが大きい」とつけ加えた。

以下の文章は、韓統連が提出した名誉回復申請書の全文である。

 

申 請 書

 

 在日韓国民主統一連合(以下“韓統連”とする)は、第1に、韓統連を反国家団体と見る本国の立場を撤回し、第2に、その間に毀損された名誉を回復し、第3に本国往来の自由を保障することを要請し、本申請書を提出します。

1.韓統連の前身、韓民統の結成経緯と意義

○ 韓統連の前身である韓国民主回復統一促進国民会議(以下“韓民統”とする)の結成は1973年8月のことですが、韓民統が結成されるまでには、解放以後、在日同胞たちの権利を取り戻す過程とも無関係ではない一連の過程と前史が存在します。ここでは、まず韓統連の前身である韓民統の歴史的な根本、根源に対する簡略な考察を通じ、この組織の性格を究明する第一歩になればと考えます。

○ 太平洋戦争における日本の敗北以後、数百万にもなる在日同胞にも自由がおとずれました。解放された民族として、感激と喜びに沸き返る在日同胞のなかで、みずからの権益を擁護する自治団体を結成しようとする動きが自生的に活発に起こりはじめました。

○ 解放後、最初に出現した在日同胞団体は、新祖国建設を志向し、在日同胞の帰国問題と人権擁護を目的とする在日本朝鮮人連盟(朝連、1945年10月結成)でした。このころ、本国では韓国民主党と共産党を両極とする左右翼の勢力の政治的対決局面が、次第に目だって現われるようになり、その影響が日本の地にも及びました。そうして保守的性向をもつ青年たちが朝連に対抗して朝鮮建国促進青年同盟(建青、1945年11月結成)を結成しました。

○ 1945年12月、朝鮮問題に関するモスクワ3相会議の決定は、本国の政治勢力をいわゆる賛託派、反託派の両陣営に引き裂く結果を招来し、これを契機に左右翼間の対決は非常にするどい様相を帯びはじめました。在日同胞のなかでも信託統治案に反対する人々は朝連を脱退し、新朝鮮建設同盟(46年1月結成)を結成し、後に在日本朝鮮居留民団(民団,46年10月結成)として再出発し、朝連は以後に朝鮮総連として進むことになります。

○ 1948年8月と9月に南と北で各々政府が樹立された結果、わが国の分断は、政治的に構造化され、日本軍の武装解除により臨時的にひかれた38度線は、今日まで民族の分断線として固着化されてしまったのです。当時のこのような情勢変化は、在日同胞団体間の性格をさらに鮮明に対立させ、民団は在日本大韓民国居留民団として改称し、朝連は北側の共和国を支持する団体として残ることになりました。

○ 韓民統の根をなしている「民団」は、解放後、在日同胞の権益を守ることを目的として結成された自治団体であり、創立初期にはこの目的を遂行するのに特別な問題はありませんでした。ところが李承晩政府が樹立され、情況が変わるようになります。「民団」が本国政府の公益団体となり、‘在外国民登録’、‘旅券発給’などの手続きの一部委託を受けるや民団の内部問題に対する李承晩政府の干渉が始まりました。北進統一を叫びながら独裁政治を繰り広げた李承晩政権の無分別な干渉行為は、民団活動に深刻な混乱を招き、これを契機に本来の使命(在日同胞の権益の保護と増進)を固守するのか、李承晩政府の政策を支持するのかという問題をめぐり、「民団」内の対立と葛藤が起こるようになりました。

○ 民団内部のこのような対立は、4・19革命による李承晩独裁政権の崩壊で、いったんは解消される局面に入りました。60年5月に民団全体大会で採択された‘民団第3宣言’は、本国政府との関係において、今後は“海外同胞に対する施策および対日政策に対し、是々非々の態度を堅持し、国内政治においても国憲に背馳する政策に対しては、可否の態度を明確にする”との基本的立場を鮮明に打ち出しました。

○ しかし本国において、ふたたび5・16ク−デタ−で軍事政権が出現するや、状況はまたもや変わりました。民団内部に対する朴正煕軍事政権の干渉が始まり、駐日代表部(現在の駐日大使館)を通じ、公権力で民団を御用化しようとの策動が公々然と強行されました。

○ このような環境のなか、自治団体という性格であった民団の自主性を守ろうとする良心的な人士たちは1961年10月、‘民団正常化有志懇談会(有志懇談会)’を組織し、その指導のもとに民団の自主化・民主化と屈辱的な韓日会談反対闘争を力強く展開しました。

○ このような闘争は、民団同胞たちの広範囲な支持を受け、日を追うごとに駐日代表部とそれに追従していた、民団中央執行部は窮地に追いやられることになりました。韓日会談が屈辱的に妥結され、韓日条約の締結が強行された後、国内外の反政府気運がさらに高まっていくなか、民団執行部は、民団と同胞たちへの統制と干渉をまるで当然のことのようにためらわず強行する駐日代表部と権力の侍女へと完全に転落し、70年代初に至っては、破局的な孤立に陥ることになりました。

○ 事態がこのように進展するや、駐日代表部は御用化された民団中央を操縦し、民団の自主化・民主化闘争に参与していた民団東京本部と神奈川本部に‘直轄処分’を出し、在日韓国青年同盟(韓青)の傘下団体資格を取り消し、民主的な幹部と活動家を一方的に権利停止させ、除名するなどの暴挙を強行しました。まさにこの時期が、軍事独裁政権が自身の権力維持のため、以後、建設される韓民統を反国家団体として規定する根源的な開始時点だといえます。

○ こういった状況に直面した自主化・民主化運動の推進勢力は、有志懇談会を基盤とし、‘民団自主守護委員会’を新たに組織し、民団御用化反対闘争をさらに一層強化していきました。

○ 1972年7・4南北共同声明の発表は、本国の民衆だけでなく、海外同胞にも大きな衝撃を与え、同胞たちの間に激しい統一運動の波が沸き起こりました。7・4共同声明が発表されるや、民団自主守護委員会、民団東京本部、韓青中央本部の共催で7月7日、7・4声明を支持歓迎する大会が開かれ、このような民衆大会は大阪、横浜、京都、神戸など、各地で開催されました。また7月23日には、分断以後23年ぶりに初めて、政見と思想を超越した、全ての在日同胞がともに7・4南北共同声明を支持する大会をもつことにもなりました。

○ 7・23共同大会が終った後、この大会に参席するため日本各地からすべての有志懇談会所属の民主人士50余名が民団東京本部に集まり、発展する情勢に合わせ、7・4共同声明に依拠した祖国統一運動を持続的に展開することに対して合意しました。この協議を通じ、祖国統一運動を推進する母体を組織することに意見が集められ、その準備のための発起委員が選定されました。

○ このような過程を経て72年8月20日、東京で民族統一協議会(以下“民統協”とする)の結成大会が開かれました。民統協は南北共同声明を積極支持し、その誠実な履行を期待し、民族主体性を堅持し、自主的で平和的な祖国統一を達成し、思想と理念、体制の差異を超越し、民族大団結をなし遂げ、国内外すべての同胞の総力を祖国統一隊列に結集させ、平和を愛する全世界の国民たちとの親善をはかるなどの5つの内容からなる行動綱領を作りました。このような民統協の建設は、在日韓国人の民族統一運動が「民団」という狭い枠を抜け出て、全民族的な視野で展開し得る契機となりました。

○ 民統協が結成され活動が開始されいくらもたたない間に、本国では非常に酷く厳しい政治的な事態が醸成されました。すでに1960年代末に3選改憲を造作し、1971年にはそれに基づく大統領選挙を実施することで長期執権の道に入った独裁者・朴正煕は、‘祖国の統一を促進させる’という名分で1972年10月、維新政変を断行し、1人永久独裁体制を構築し、統一を妨げる欺瞞的な策動にのり出します。いわゆる6・23特別声明を通じて7・4南北共同声明の合意事項を蹂躙し、祖国の永久分断を公式的に政策化したのもこの時期です。そうして国民たちは、維新独裁のもとに人間固有の権利を奪われたまま屈従を強要され、良心的な政治人、社会活動家、知識人、青年、学生たちは逮捕され、監獄に送られ、民族統一運動は過酷な弾圧を受けることになりました。当時の情勢は、1人独裁を懲戒し、民主民権を取り戻し、民族の永久分断を防ぎ、統一祖国の新たな歴史を開くために国民の決起を切実に要求していたし、とくにそのような闘争を率いていく指導組織の結成の必要性を提起していました。

○ 民統協に網羅された有志懇談会の構成員の中心だった在日民主人士たちの思いも同じでした。折しも1971年の大統領選挙の不正により選挙で勝利はできなかったが、朴正煕に政治的・道徳的な大打撃を加え、民主陣営の有力な指導者として浮上した金大中氏(現大統領)が、日本に滞在していました。こうして在日民主運動の代表者たちと金大中大統領は互いに手を握り、海外で民主化と祖国統一運動を強力に繰り広げていくこと、その運動を指導する組織として『韓国民主回復統一促進国民会議(以下“韓民統”とする)を結成することに合意しました。‘独裁を打倒し、民主回復争取しよう’、‘日本は独裁政権を支持するな’などの闘争スローガンも作られ、このスロ−ガンは、韓民統結成後の闘争指針にもなりました。

○ ところが韓民統結成を数日前にして、金大中大統領が中央情報部により、ら致される事態が発生しました。在日民主運動家らは難局を乗り越えて進む非情な覚悟で、金大中大統領救出運動を繰り広げる一方、予定通り、8月13日に発起人大会、15日に結成宣言大会を開き、韓民統の出帆を宣言しました。韓民統の発足は、北米州、欧州など世界各地の同胞の中で、本国軍事独裁政権に反対し海外同胞の権益を守護する多くの団体が結成されるうえで、大きな役割を果たしました。

○ 要するに韓民統は、朝鮮総連とその根を異にする「民団」にその根源を持つ組織として、7・4南北共同声明に基づく祖国の平和的・自主的統一のための民間次元の活動と、反独裁民主化闘争と在日同胞の権益守護のために創設された団体です。こうした韓民統の結成は、海外同胞運動及び韓国の反独裁民主化運動の発展において、大きな意味を持ちます。韓民統が結成されることにより、在日同胞は従来の体制内の部分的で制限された分散的な運動を止揚し、明確な目的性を持ち、ひとつの民主愛国力量で固く団結し、反独裁民主化運動を繰り広げるようになりました。これは在日同胞運動の画期的な転換であり発展でした。また、韓民統の結成は、歴史的に見れば維新体制宣布後の海外での活動だが、維新独裁に正面から反対する合法的な組織が誕生し、抑圧される韓国民衆が反維新民主化運動の開始を内外に宣言したことを意味しています。実際に韓民統の結成を出発点にし、韓国民の反維新民主化闘争は本格的に展開するようになりました。当時、国内の民衆は沈黙を強いられており、口があっても語ることができず、目があっても見ることができず、ペンがあっても書くことができない状況に置かれていました。すなわち、反維新民主化運動において、その始まりは海外同胞が引き受けなければならなかったのです。韓民統の結成はまさに、祖国の誤った政治状況−維新独裁に立ち向かうための行動でした。韓民統の結成後、国内と海外の反維新民主化闘争は、ひとつの流れに形成されて急速に発展していき、海外での闘争も日本はもちろん、全世界的な範囲で拡大されました。

 

2.韓民統の活動

1)反維新・反独裁民主化運動(金大中大統領救出運動)

○ 大韓民国の民主化実現と祖国統一の促進は、韓民統結成以来、一貫した運動目標であり、運動内容でしたが、出帆初期に韓民統は反独裁民主化闘争に優先して努力を傾けました。韓民統の反維新独裁闘争の展開は、金大中大統領救出運動から始まりました。韓民統議長に推たいすることにした金大中大統領が中央情報部により拉致されたまま、結成大会を開くことになった状況のもとでは、そうするほかなかったし、当時、民主化の象徴とされていた金大中大統領の救出は、本国の民主化をはやめる近道だと考えたからです。ら致事件が発生した直後、韓民統結成準備委員らは金大中先生救出対策委員会(以下「救対委」)をただちに構成し、8月15日の「金大中先生ら致糾弾在日韓国人民衆大会」開催を始まりとして、金大中大統領の原状回復を勝ち取るための闘争を開始しました。韓民統の金大中大統領救出運動は、世界各地域の海外同胞はもちろん、国際社会に大きな波紋を起こし、朴政権の反民主、反民族的実態を余すところなく暴き、国際的な孤立を深めさせました。

○ しかし、本国の状況は悪化するばかりでした。張俊河氏ら国内民主人士により推進された「民主憲法100万人署名請願運動」を、1・8措置を通じて弾圧し、日本政府に在日韓国人民主団体に対する取り締まりと弾圧を要請するなどの事件が、まさにそれでした。朴政権の暴圧統治のもとでも、本国民衆の反維新独裁闘争は粘り強く展開されました。1974年末に至っては、反独裁勢力を総網羅した「民主回復国民会議」が結成され、「国民宣言」が発表さました。このような情勢発展に対応して、韓民統は毎回、声明文と抗議文の発表、民衆大会と街頭示威など、さまざまな形態と方法で朴正煕独裁政権を糾弾し、本国民衆の闘争を支持声援する一方、韓国民衆の闘争に支援を要請する国際連帯活動を繰り広げました。

○ こうしたさまざまな形態の活動を繰り広げるなか、1976年8月12日から14日まで、東京で「韓国問題緊急国際会議」が開催されたことは、この年、韓民統の活動がおさめた非常に大きな成果でした。国際会議には16か国の著名な人士が参加し、民主化と祖国統一を求める韓国民衆の闘いに全的な支持を表明しました。

○ 結局、朴正煕維新独裁政権は、本国民衆とともに韓民統が繰り広げてきた民主統一運動により、悲壮な終末を迎えることになりました。

2)金大中大統領第2次救出運動

○ 10・26事件により、維新独裁政権は崩壊しました。この事件を契機に維新残党の清算と民主化を保証する改憲運動が燎原の火のように燃え広がり、維新政権は1980年2月末ごろ、金大中現大統領ら、民主人士687人に復権措置を取らざるをえませんでした。これにより、金大中現大統領は、7年ぶりに自由を取り戻すことになったのです。

○ これにより、韓民統は、救出運動の1次的な目標は一旦達成したと判断し、1980年3月に「金大中先生救出委員会」を解散し、全力を民主化と統一運動に集中することに決定しました。

○ しかし、2か月もたたないうちに、5・17クーデターにより、金大中大統領は数多くの民主人士らとともに再び拘束され、軍法会議で裁判を受けることになりました。彼にかぶせられた「罪名」は、「内乱陰謀及び国保法、反共法、戒厳布告令違反」というひどいものでした。これは、全斗煥一派が金大中大統領を抹殺しようとする意思を表したものでした。ここに韓民統は、危急な事態に直面し、解散した救出委員会を復活させ、再び金大中大統領救出運動を繰り広げることになっりました。

○ 韓民統は、金大中大統領を抹殺しようとする、新軍部の凶悪な政治的意図を暴露する広報活動を第1次救出運動に続き精力的に繰り広げました。韓民統はまず、戒厳司令部がねつ造した「金大中一派に対する中間捜査発表文」の虚偽性を暴露しました。こうした活動を通じて、正義と民主主義を愛する世界の広範な人士の義憤を呼び起こし、「金大中救出」のための運動団体が、日本の主要都市をはじめ世界各地に数多く組織されるようにしました。

○ 金大中救出に対する国際世論と行動戦線を絶え間なく拡大するために、旅券を拒絶されている状況にもかかわらず、日本法務省の再入国許可証だけで海外に出ていき、世界的な範囲で救出運動を直接繰り広げました。

○ 韓民統常任顧問であり韓民連共同議長である「東湖先生は、尹伊桑韓民連欧州議長と林民植韓民連国際局長らとともに、1980年6月12日、13日の両日にかけて、ノルウェーのオスロで開かれた、「社会主義インター幹事会」(議長:ビリー・ブラント西独社民党党首)に参加しました。この幹事会には31か国の社民党代表と42の政治団体が参加していましたが、「東湖韓民統常任顧問は特別演説を通じて、10・26事態以後に全斗煥一党が敢行した12・12事態をはじめ、5・17戒厳令拡大措置とともに、金大中現大統領ら民主人士を拘束し抹殺を画策している事実、そして光州民衆大虐殺の蛮行の実態を詳しく報告し、民主化と金大中現大統領救出のために闘う韓民統・韓民連に対する深い同情と熱烈な支持を引き出しました。

○ 韓民連・韓統連代表団は帰路、米国のワシントンに寄りマチェンディ米国務省韓国担当官、ケネディ上院議員補佐官、ブレイザー前下院外交委員長らをはじめとする多くの米国政界人士と会い、金大中現大統領の救出に対する協力と米国政府の対韓半島政策の是正を要請しました。このように金大中大統領救出を訴える韓統連の活動は、大きな反響を呼び起こし、支持されました。

○ また、1976年に続いて、1980年7月末から始まり10月までのわずか2か月間に、「金大中救出100万人署名」を集め、国連人権委員会に提出しました。また、高等軍法会議で、1審判決どおり死刑が宣告されたことに抗議し、「死刑判決糾弾11・8韓日連帯緊急集会」を開催し、その間集めた日本国会への請願署名簿を日本国会に提出しました。

○ これに先立ち、韓民統と救出委は、80年8月13日から15日まで東京で、「金大中先生救出と韓国民主化のための緊急海外韓国人代表者会議」を開催し、金大中現大統領救出運動を国際的に幅広く展開していくために、「金大中先生救出海外韓国人連絡協議会」を構成しました。この会議には、日本、米州、欧州など、8か国から、約100人の韓国人民主人士が参加しました。金大中先生救出海外韓国人連絡協議会が結成されることにより、救出運動の世界的ネットワークを形成したのです。このネットワークは、世界各地で外国人民主人士を組織し、救出運動に立ち上がるようにするうえで、主導的な役割を果たしました。

○ 軍法会議と最高裁で、金大中らに対する裁判が引き続く間、韓民統は裁判の不当性を告発し、救出運動を持続的に高めるために、東京の中心地に位置する「数寄屋橋公園」で、続けて3回も断食闘争を繰り広げました。特に、最高裁判決を前にした80年12月4日から突入した無期限断食闘争は、日本市民らの中に大きな反響を呼び起こし、日本社会党国会議員をはじめとした著名な学者、文化人、市民運動家ら、延べ約500人が現場を訪れ、激励し、ともに闘う決意を表明しました。

○ 最高裁が金大中氏の死刑を確定する判決を言い渡し、国務会議で無期刑への減刑措置が決定したその後にも、韓民統は金大中氏が米国に「追放」されるまで、彼の釈放のために国際会議、大衆集会、街頭宣伝、金大中氏の獄中書簡の紹介、音楽会、絵画展、米国政府への手紙送付運動などを粘り強く繰り広げました。

3)全斗煥政権時期の反独裁民主化闘争

○ 12・12クーデター以後に出帆した全斗煥政権は、その前の朴正煕政権をはるかに凌駕する凶悪で暴力的な軍事独裁政権でした。韓民統は本国民衆の意志を代弁して、全斗煥軍事政権の罪状を世界に告発して断罪する活動を多方面で展開しました。とくに韓民統は、5・18光州民衆抗争時の光州市民らの闘う姿と、弾圧軍の暴虐無道な殺人蛮行の現場を録画した資料を集めて映画「韓国1980年−血の抗争の記録」を作成、6月10日から日本の各地で上映運動を大々的に展開し、光州で犯した全斗煥一派の罪状を在日同胞らと日本人に向けて広範囲に宣伝し、その事実を確認させました。

○ その後、1981年2月に開催された韓民統第9回中央委員会は、全斗煥体制を「軍事ファッショ独裁政権」と規定し、国際的規模で反全斗煥連合戦線を構築して反独裁闘争を繰り広げることを基本運動目標に設定しました。こうした中央委員会決定にもとづき81年5月、東京で3日間にわたって開かれた「韓国民主化支援緊急世界大会」は、海外同胞運動がなし遂げた実に大きな成果でした。光州民主抗争1周年を迎えて開かれたこの国際会議では、世界の27か国と3国際機関から延べ1600人が参加し、音楽会、絵画展、大衆集会などで日本全域を光州の喚声で覆いました。この国際会議を通して、全斗煥政権の罪状は全世界の隅々まで知れわたりました。こうした国際会議は1982年5月と1983年5月にも続けられることになりました。

○ 韓民統が海外で繰り広げた反独裁運動は、世界各地の海外同胞らの間に広く波及し、本国民主勢力の反全斗煥闘争も次第に高揚し始めました。1983年5月には、当時の新民党総裁だった金泳三氏が、全斗煥政権のファッショ暴力に抗議して無期限ハンストに突入し、8月13日には米国に強制追放されていた金大中氏と金泳三氏の共同名義による特別声明がワシントンとソウルで同時に発表されました。韓民統はその度毎に、本国民主人士らの闘争を支持・声援する活動を繰り広げ、金泳三氏ハンスト闘争に連帯して韓民統幹部らは、東京でハンスト闘争もしました。

○ 1984年から1986年にかけて、大韓民国では民衆民主運動協議会など、数多くの民主団体が出現し、南北赤十字間の救援物資の引き渡し・引き受け作業、芸術団と離散家族の相互訪問など、韓半島問題を平和的に解決しようとする当事者たちの対話を模索する動きが表面化する一方、韓半島の軍事的緊張と、新民党と文益煥牧師など民主勢力に対する過酷な弾圧が並行する時期でした。こうした時期に韓民統は、86年の3・1節67周年、4月革命26周年、光州民衆抗争6周年などを契機に、「民主制改憲争取、全斗煥軍事独裁打倒、在日韓国人決起大会」を開催するなど、本国の民主化闘争と歩調を揃えて、日本で本国民主化闘争を力強く展開しました。

○ 1987年、護憲撤廃と独裁打倒、大統領直選制を求めて本国で、民主化闘争が極に達していた当時、韓民統もまた、日本で在日韓国人愛国力量を総動員して大衆集会とデモ行進など、本国民衆らの闘争に合勢して様々な形態の活動を繰り広げました。

4)小結

 韓民統の活動を大きく分けると、ひとつは朴正煕と全斗煥政権へと続いた軍事独裁政権に対する打撃を目的とする本国民主化闘争と、金大中大統領ら致に対応した救出闘争のふたつに分けることができます。すなわち、本国でのその時々の情勢と条件にもとづいて展開されていた民主化闘争とその脈絡を同じくしながら、本国で発言することが困難な様々な問題に対して、海外での先導的発言を通して本国の闘争と脈絡を同じくするのはもちろん、世界の与論を韓国民主化に注目するようにする活動を展開してきたのであり、その大きな軸を占めていた金大中大統領ら致事件に対して、他の誰よりも最も先頭で闘ってきたのです。

3、韓民統が反国家団体とされた経緯と過程

○ 韓民統は1978年、いわゆる「在日同胞留学生『金整司国家保安法違反事件』」裁判(81、1、23 宣告、80年度2756号)を通して、反国家団体だとの宣告を受けたことがあります。しかし実質的に当事者である金整司氏は、韓民統の会員でもないばかりか、韓民統が北韓にそそのかされて北韓を鼓舞・称賛する目的で、日本での反政府活動を展開していたということも、前述した韓民統の歴史で明らかなように事実ではありません。それにもかかわらずその後何度かの大法院判決は、前述判決にもとづいて「韓統連は韓民統の構成員たちが89年2月12日に、これを発展的に改編してその名称だけを替えたことに過ぎず、反国家団体に該当する」と判断を下しました(90、9、11 宣告、90 年度1333判決,1990、10、12宣告、90 年度1744判決,1995、9、26 宣告、95年度1624判決)。しかしこれは、1978年当時の厳しい国内の政治的状況で、過って下された反国家団体という宣告をそのまま追従したものであり、再検討されなくてはならない事項であると考えます。

○ 韓民統を反国家団体だと認定した根拠と関連して、当時のある検察の公安関係者は「韓民統の組織自体が北の指令によるもので、当時の韓民統議長などの構成員の成分が北にいって指令を受けた工作員であったり朝鮮総連の操縦を受ける者たちであり、工作金も金日成の直接指示によって巨額の支援を受けており、活動面でも各種の反韓糾弾大会などに公公然と朝鮮総連と共同で活動している点などの証拠が明らかであるため」(以上は東亜日報1978年6月20日の記事の内、一部を抜粋)であると明らかにしました。

○ しかし、大きく三つの点(北韓の指令による組織構成、北韓の活動資金支援、韓統連の活動)に区分されるこれらの根拠は、実際にはまったく事実ではないので、以下のように立場を明らかにすることを通して、その反国家団体宣告が不当だということを述べたいと思います。

1)韓民統が北の指令によって建設された組織であるという見解に対して

○ 韓民統は、民団有志らの自主的意志と決心にもとづき創立された、在日韓国僑胞らの民主・統一運動団体です。

○ 韓民統は、維新独裁によって民主・民権が余すところなく踏みにじられていた過酷な時期であった1973年8月13日、日本の東京で民主回復と民族自主、祖国統一を勝ち取る目的で70人の発起人によって創立され、その二日後である8月15日、東京の日比谷公会堂で創立宣布大会を開催して正式発足しました。

○ 韓民統の創立を準備してきた70余人の発起人らの中には、民団中央団長・議長職を歴任した民団の元老たちと現職顧問ら、そして民団東京と大韓婦人会東京、在日韓国青年同盟中央本部と各県本部の現職委員長らが含まれており、彼らは全員が民団(在日本大韓民国居留民団)の団員らであり、朝鮮総連同胞は一人もいませんでした(これは当時の発起人名簿を通してはっきりと確認できます)。したがって、韓民統は朝鮮総連によって構成されたといつ指摘は、事実とまったく異なるねつ造された主張であり、これは韓民統の結成過程で見てきたように、45年に発足して朝鮮総連の前身となった在日本朝鮮人連盟の路線に賛成しなかった民主人士らが構成した組織体が、まさしく民団であったことを見ても、このことが立証されます。

○ さらに、金大中大統領の次のような証言(「新東亜」87年6月号、275ページ)を通して、そうした点はなお一層、明確になります。

「私は米国と日本、カナダに反維新民主化の拠点を作るため東奔西走した。そうして、まず73年6月、「韓国民主回復統一促進国民会議」という組織を米国で結成した。同様の組織の東京本部を作るため、私は73年7月に日本を訪問した。日本で私が会い協議した人々は、第8代国会議員であって、今は逝去された金載華氏と私の昔からの親友である金鐘忠氏、そして「東湖、趙活俊氏などであった。彼らはこの当時、故国で繰り広げられている政治状況を心配しながら、祖国の民主化と統一を念願していた人々であった。ただ、彼らが朴政権の維新独裁体制に反対する立場を取っていたために、民団内では非主流の位置に置かれていたが、思想的には疑いの余地のない人々だった。韓民統東京本部を結成するにあたって、私は三つの組織原則を堅持していた。

 ひとつは大韓民国絶対支持、二つ目は先民主回復・後統一、三つ目は朝鮮総連とは連係しない(筆者注・この部分は読者たちに誤解を与えるかも知れない表現であるため解説すると、朝鮮総連との7・4南北共同声明支持大会を今後はしないように、とのことであった)ことなどだ。――中略――そうして私は4つの主張を受け入れるのなら共に手を握り、そうでないのなら手を切ると通告した。結局、彼らは4つの主張を受け入れ、このようにして日本にも「韓国民主回復統一促進国民会議」が結成されることになったが、結成大会までわずか数日という時に、私はら致されてしまった。

2)韓民統の活動資金は北韓と朝鮮総連の支援を受けているとされていることに対して

○ 韓民統の活動資金は民団同胞有志らの寄付と会員らの会費で賄われています。これは韓民統の結成当時から1994年改定の韓統連現行規約改正時まで、継続して明記されていた「会員の会費納付義務」を通しても明らかです。

○ こうした会員たちの会費以外の活動資金の出所は、在日民団系同胞らの寄付です。韓統連が寄付者たちの名簿を容易く公開しないのは、彼らの大部分が現在でも本国を往来する企業家たちであり、万一、名前が明らかになった場合、相当な不利益がもたらされることを憂慮するからです。本国の例を見ても、企業家たちが野党と運動団体に寄付金を納付するときは、公開的にできない場合が多く、現行法上、反国家団体と規定されている韓民統/韓統連の場合には一層そうであるでしょう。しかし韓民統/韓統連に対する反国家団体規定の撤回と、良心の自由が実質的に保障されるときには、在外民主統一運動に寄与した彼らの功労を全国民に知らせるでしょう。

3)朝鮮総連などと共同事業を行ってきたという点

○ 朝鮮総連などとの共同事業の進行が問題となる最も大きな理由は、韓民統の運動路線を果たしてどのように見るのか、あるいは、韓民統の運動路線が北韓の赤化統一路線と脈絡を同じくしているのかなどが、その核心となるものです。

○ したがって、まず、韓民統の運動目的と運動路線を優先的に調べてみなければならず、このことは、創立大会で採択された「発起宣言文」と「政綱政策」、および、活動内容を分析・検討して判断を下さなければなりません。

○ まず、韓民統の発起宣言文で明らかにしている目的と運動路線は、民族自決と民主守護、統一・救国です。これに関して、発起宣言文では次のように記述されています。

○ 民主守護について:「我々が多くの不幸が重なって苦痛が極みに達した息詰まる状態から抜け出すために、現維新体制を打破して民主憲政秩序を回復すること以外に他の方法がない。主権者である国民が名実ともに主体となって、国民が委任した当該機関で立法、行政、司法が厳正に分立される民主憲政の確立、まさしくここに民権を取り戻す道があり、社会正義を実現する理がある。また、それがすなわち、民族統一と国家繁栄の近道である」

○ 民族自決について:「韓民統は列強のたくらみから祖国を守り、民族の自主権を擁護する同胞の誇らしい良心となるものであり、民族の永久分裂を防ぎ、統一祖国の新しい歴史を早める救国の前衛隊となるだろう。」

○ 民族統一について:「統一の美名の下に分裂を追求する現独裁政権を打倒して、民族統一の大通路を開拓しよう!独裁体制が掃討され、民主憲政が回復される時、我々は以北の共産主義者らとも民族的和解をなし遂げることができるし、5千万南北の同胞はためらうことなく抱き合うことができるだろう。その時、韓半島の南北間には文字通り、思想、理念と制度を超越した民族的大団結がなし遂げられるだろうし、祖国三千里錦繍江山は赤化でもなく勝共でもない、中立民主の公正な旗のもとに歴史的な大統合を見るようになるだろう。

○ 以上が韓民統の主張です。韓民統は発起宣言文で鮮明にした運動路線に従って、韓国民の立場に確固として立って三つの目的を達成するために闘争してきまし。韓民統は10周年を迎えて第二宣言を採択しましたが、その内容は、創立当時の民族自決、民主回復、統一救国の三大課業を自主・民主・統一と再定立したものであり、韓統連結成当時の綱領もまた、このような脈絡に他ならないことを確認することができます。

○ 韓民統が創立当時、発起宣言文で明らかにした民族自決、民主回復、統一救国の三大課業と第二宣言の三大課業は、本国民主勢力の運動目標、および理念と完全に一致するものであり、その内容のどの部分にも「共産主義の運動」や「反国家行為」として非難されなければならない点はひとつもないと確信しまる。万一、韓民統が創立以来15年間にわたって一貫して主張した民族の自主権守護、民主主義確立、自主的民族統一などの三大課業と運動路線が「反国家行動」だというなら、遠くは8・15以後から、近くでは1970〜80年代の韓国の民族民主運動をすべて「反国家行為」と規定しなければならないという歴史的自己矛盾に陥ることになります。

4)小結

○ 上の事実などを見る時、韓民統/韓統連に対する「反国家団体判示」は、海外での反独裁民主化闘争の拡散にうろたえた独裁政権が韓民統を破壊して金大中大統領を抹殺するための陰謀であったことを確認することができ、1978年の韓民統に対する「反国家団体規定」は当然、撤回されなければならないと考えます。

4.韓統連の結成経緯と過程、および、盧泰愚政権下での主要活動

○ 1989年2月に開催された韓民統第15次拡大中央委員会は、結成後16年間の活動を総括して、韓民統を韓統連に改編することを決定しました。引き続いて宣言と綱領を採択し、新しい執行部を選出しました。

○ 韓民統を発展的に改編することは、1988年当時の複雑な情勢の流れの中で提議され、十分に論議されてきた決定でした。韓民統の発展的改編を要請した情勢の特徴は、何よりも本国で民族民主運動勢力が飛躍的に成長・強化されたという事実でした。継続して展開されてきた民主運動が60年代と70年代を経て80年代に至る間、暴虐な軍事独裁との対決の中で不断に力量を蓄積し、第6共和国政権が出現した時点ではそれなりの大きな運動勢力を形成することができたためです。

○ このような成長が可視的に表れたのは1989年1月に結成された「全国民族民主運動連合(以下、「全民連」と略称する)」と、1987年6月抗争以後、建設された「全国大学生代表者協議会(以下「全大協」と略称する)」でした。韓民統の韓統連への組織改編はまさに、「本国民主団体との連帯を強化し、自主・民主・統一の新しい地平を開いていくために、組織改編をしなければならない必要性」を切実に要求されたためです。

○ このような事実は韓統連の規約を通してもよく表れています。1974年9月21日当時の韓民統の規約には規定されていなかった中央常任委員会と指導委員会、地域本部などが、1983年の韓民統規約で追加されましたが、事実、中央常任委員会と指導委員会、地域本部などの構成は、「会議」という緩やかな体系としては保証することが困難な組織形態です。それで韓統連へと発展的な組織改編を図り、上の機関の構成根拠を「連合」という、より統合的な組織構成を通して明確にしたのです。さらに、1994年、改正された韓統連規約で代議員大会を新しく規定するなど、韓民統から韓統連への組織改編はより民主的な組織運営と統合的で効率的な活動のために要求されるものであることを雄弁に語ってくれています。

○ すなわち、韓統連の発足は、本国民主化運動が成熟していき、そのような流れに呼応しながら、海外での民主化闘争に拍車をかけるためのものであり、また、韓民統の運営をより民主的で統合的にするための措置でした。

○ 韓統連が発足した年の1989年に展開された活動で主たるものは、盧泰愚政権が作り出した公安政局を打ち壊し、民間主導の南北間の自主交流を推進したことです。以前から執権当局の南北対話と交流の「窓口単一政策」の撤廃を要求して自主的民間交流を主張してきた民族民主勢力はそれを実践する道に踏みいりました。1989年春、全民連顧問、文益煥牧師の平壌訪問とその夏、全大協代表林秀卿氏の平壌祝典参加がまさにそれです。韓統連は、盧泰愚政権の容共でっちあげと韓統連に対する誹謗中傷を糾弾し、文益煥牧師と林秀卿氏のような愛国人士を高く評価しながら、彼らの無条件釈放を要求する闘争を春から夏にかけて継続的に進行しました。

○ 1990年は、国内外の民族民主勢力が「祖国の平和と統一のための汎民族大会」開催のための闘争を力強く繰り広げ、それを実現させた意義深い年でした。韓統連は、海外でも積極的に呼応協調することを望んだ汎民族大会南側本部の提議を快く受け入れ、在日民主団体との協議を経て、90年3月に「汎民族大会日本地域推進本部」を結成したのに続き、4月には「海外本部」を発足させました。しかし、この運動は全民連が数次、試図した北韓代表との板門店予備接触を妨げられたように盧泰愚政権の弾圧で甚だしい困難を経るようになりました。

○ つまり、盧泰愚政権に入って繰り広げられた韓統連の活動は、それまでの時期を通して蓄積された国内外の民族民主運動勢力の力をひとつに集め、軍事独裁政権の民主勢力弾圧に立ち向かう活動を継続して展開することであり、これと共に民間次元の南北交流協力を通した民族の同質性回復と統一運動促進にその焦点を置いたものでありました。

5.金泳三政府に対する韓統連の基本立場と活動

○ 1993年2月に出帆した金泳三政権は、これまでの歴代軍事政権とは違う改革政策を打ち出した。4月に開催された韓統連第5次中央委員会は、文民政府の出現を4・19以来絶え間なく展開されてきた民主化闘争の結実として評価し、改革政策に対する強力な支持の意思を表明しました。韓統連は文民政府に対して改革政治を中断なく推進し、自主的立場を確固として堅持し、民族優先主義の道へ進むことを強く要望したのです。これに従って、韓統連は中央委員会を通して、文民時代に合わせて民族自主権の確立と韓半島非核地帯化実現、南北合意書履行、軍部統治の残滓清算と民主大改革の実現などを促進させることを内容とする運動方針を決定しました。

6.金大中政権に対する韓統連の基本的な立場と運動方向

 1)金大中政権に対する韓統連の基本的な立場

○ 韓統連は1998年3月1日、韓統連が発行する在日同胞新聞である「民族時報」を通して、「金大中政権発足に際して」という題目の記事で、国民の政府に対する主張を発表しました。この文で韓統連は、「金大中政権が出帆の錨(いかり)をあげた。(韓国で)政府が誕生して以来、初めての野党政権の誕生だ。金大中政権が50年ぶりの政権交代の意味を生かそうとするなら、過去の政権との違いを明確にし、自主自尊と真の民主主義の時代を必ずや開かなければならない」とし、「新政権の前には難題が山積している。金大中大統領は就任時で『今日、この国は政治、経済、社会、安保そして、南北問題などすべての分野で挫折と危機に直面している』として、『これを克服するためには、総体的な改革が必要だ』と強調した」と報道する一方、「われわれはこれに同意しながら、人気にとらわれることなく、誤りを正す大改革を果敢に推進することを、心から望む」という言及を通して、新たな政府にかける韓統連の大きな期待感を表明しました。

○ 特に、新たな世紀を前に、南北関係においては「南北関係を改善し、祖国統一を成就するためには、冷戦時代的で反民族的な南北対決政策を和解と団結、協力の関係に転換しなければならない」として、民族和解と平和統一の切々たる願いを明らかにしました。韓統連はこのような南北関係の原則として「祖国統一の原則は7・4南北共同声明で明らかにされた自主・平和・民族大団結の3大原則だ。この3大原則が再確認されるなら、統一方案はたやすく合意できるだろう」として、南北相互間の信頼獲得が前提とされる時にのみ、これ以後の円満な南北関係は可能だと展望し、南北当事者による平和統一が韓統連の統一路線であることを明確にしました。

○ これとともに韓統連は、民族主体性確立の観点から、教育と言論部分の改革もやはり看過してはならないという主張とともに、「われわれは金大中政権が20世紀を締めくくり21世紀を開く歴史的な時期に誕生した政権として、世紀末の時代的な民族的使命を賢明に解決することで、韓国の政治史に成功した大統領として記録されることを、心から願わずにはいられない」という言葉で、金大中政権誕生に対する主張を締めくくっています。

○ これだけでなく、「民族時報第846号(1998.3.11)」の論説、<金大中政権の初代内閣の政治的意味>という記事を通して、新たに構成された内閣が、むしろ金大中大統領の改革性向と意思を妨げるのではないかという疑問がわく、との表現で新たに発足する金大中政権に対する視角を表明しました。

2)韓統連第6回代議員大会で採択した1998年度運動基調

○ 韓統連は「民族時報第848号(1998.4.1)」の紙面を通して、1998年度の金大中政権発足以後初めて開かれた代議員大会である第6回代議員大会を開催し、98年度の運動基調を採択しました。

○ <3.金大中政権発足と歴史的使命>という題目を通して、金大中政権が経済危機など、未曾有の混乱な状況で苦しい出発となるだろうと展望しながら、主に統一政策部門に関連して「注目されている金大中政権の対北政策の基調は、吸収統一を露骨に押し出した前政権の対北強硬政策とは異なる宥和政策だと見ることができる」「民族の和解と団結を妨げている国家保安法や安企部などの反統一的で反民主的な法と機構を改廃する制度的改革が不可欠だ」と主張しました。

○ そして、これとともに政治・経済・軍事・文化の各分野に布陣している守旧勢力は改革の障害物となるだろうとの憂慮も表明しながら、したがって、金大中政権をして、その歴史的使命を果たすためには自主・民主・統一運動を一層積極的に展開しなければならないという運動基調を打ち出しました。

○ 「当面した経済危機を克服するためには、政経ゆ着を断ち、財閥を解体し、社会の民主化と経済の合理化を促進し、南北の和解を推進して大幅な相互軍縮と軍事費の削減をしなければならない」、すなわち、脱冷戦の平和志向的な経済構造への転換が必要だという前提のもとに、大幅な軍縮を実現し、外国資本に従属した経済構造から脱却して南北の経済交流を促進し、南北の自主的な民族経済を確立する方向に向かわなければならないと強調しました。

○ 要するに、韓統連が金大中政権を見る基本視角は、過去の軍事独裁政権の流れとは軌を一にしないということはもちろん、憲政史上最初の与野政権交代をなし遂げた過程と結果を高く評価するとともに、現実的に存在している守旧勢力との勢力関係において、生じるかもしれない改革の退行を憂慮する一方、このような状況で改革と民主化の完成のためにより一層積極的に、自主・民主・統一運動を展開することを決意しました。また、脱冷戦の平和志向的な経済構造への転換を図ると同時に、このために南北経済交流の活性化と自主的民族経済の確立努力をすることを決定するなど、以前の政権とは異なる現実状況を積極的に認識しながら、今後の活動の計画を樹立していくことにし、これとともにこれからの政府の活動と観点などを注視し、本国の自主と民主のためにより積極的な活動を繰り広げていくことにしたのです。

7.韓統連が望む事項

○ 「今日、この国は政治、経済、社会、安保そして、南北問題などすべての分野で挫折と危機に直面している。これを克服するためには、総体的な改革がなし遂げられなければならず」「改革は政治改革が先行的になされなければならない」。これは金大中大統領が就任時で行った発言です。特に目新しい言葉ではないが、50年ぶりに与野政権交代を果たした新大統領の公約であり、いま政治が変わるのか見守り、期待をかけてみようという国民は少なくありませんでした。

○ 金大中大統領は民衆とともに反独裁民主化運動を展開している時、独裁と不義に沈黙を守る卑怯な政治隠遁生活者と自身を区別し、自身を「行動する良心」と呼んでいました。そして、国家保安法の撤廃と情報部の解体を主張し、南北民間交流も許容しなければならず、政略的にねつ造された事件に対しても公正な再捜査の必要性を強調していました。

○ 真の民主主義と平和統一のためには、過去の清算が何よりも重要です。過去の政治の清算は、まさに「歴史を正す」という名の課業でもあります。現在、歴代の独裁政権の下で、恣(し)意的にでっち上げられた数多くの事件が、闇に葬られたままになっています。そのような事件の一つがまさに、韓民統・韓統連事件です。

○ 現在、韓統連は民族の自主と民主主義のために闘争してきた誇らしい歴史にもかかわらず、依然として反国家団体というくびきにとらわれ、本国への自由な往来を実現できずにいます。韓統連の構成員は、長きにわたる独裁との闘いの末に、真の民主主義を実現している祖国に行きたくとも「反省文を提出せよ」などの当局の冷たい仕打ちを受けて涙を飲まなければなりませんでした。あわせて現在、大韓民国の大統領が、韓統連があれほどまでに決死的に救命しようと努力してきた金大中氏だということを考えると、一層歴史的なアイロニーを感じるばかりです。

○ 1997年の大統領選挙当時、金大中候補をいまだに反国家団体の汚名から逃れられていない韓民統/韓統連と連関させて落選させようとした、いわゆる「韓民統関連写真偽造事件」が雄弁に物語るように、韓民統/韓統連に対する「反国家団体判示」は、海外で反独裁民主化闘争の拡散に当惑した独裁政権が韓民統を破壊し、金大中大統領を抹殺するための政治陰謀だったことは明白です。いまやその真相を明らかにし、韓民統/韓統連を反国家団体と規定してきたことを正す時です。そして、韓統連の毀損された名誉を回復させ、本国往来の自由の保障を通して、野望と暴力で塗り固められてきた政治史を清算しなければなりません。それだけが海外で祖国の民主化と発展のために、黙々と努力してきた同族に対する最小限の礼儀だと信じて疑いません。

まさにこのような作業を始発点に、海外同胞もまた祖国の自主・平和統一とともに呼吸し貢献することを願い、本申請書を提出します。

2000年10月19日

在日韓国民主統一連合 議長 郭東儀

代理人 法務法人 創造

担当弁護士 李基旭 李徳雨