99統一大祝典・第10次汎民族大会盛大に開催される!

〜第1回汎民族大会から10年 南・北・海外の三者連帯より強く〜

韓統連大阪本部副代表委員 金隆司(キム・ユンサ)

 

 8月15日、分断の象徴である板門店で「民族の自主と大団結のための99統一大祝典・10次汎民族大会」(略称:汎民族統一大祝典)が開催された。

 今回は、南から汎民連南側本部顧問の羅昌淳(ラ・チャンスン)先生をはじめ6名の代表団が参加し、第1回汎民族大会から10年目にして、初めて南・北・海外三者の出会いが実現した。

  そして同時期、ソウルにおいても、当局の厳しい弾圧にも拘わらず、汎民族統一大祝典が開催され、約3万人がソウル大学に結集し、盛大に催された。

 日本帝国主義による植民地支配から解放されて54年。90年代最後の8月15日。8・15汎民族統一大祝典は、南・北・海外の汎民連組織が堅く連帯し、まさに「統一が夢ではなく、近づきつつある現実である」という事を実感させた大会として歴史に記録されるだろう。

 

●南側代表団の決意と三者の力強い連帯

●感動的な南北労働者統一サッカー大会

●再会の約束

 

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■南側代表団の決意と三者の力強い連帯

 8月7日、中国北京で開かれた「民族の自主と大団結のための民族大討論会」に参加した南側の代表団の内、汎民連南側本部代表など5名が平壌に到着した。空港には、既に到着していた黄ヘロ氏(ファン・ヘロ 韓総連代表)も出迎えた。彼女は5月24日に家族に「1週間ほど巨済島に行ってくる」と言って家を出た後、その日のうちに大阪に出国、スイス等を経由し8月1日に平壌に到着したという。

 文益煥牧師、林秀卿学生(当時全大協代表)が訪北し、90年代民間統一運動の新しい地平を切り開いたのが丁度10年前の1989年。その成果を継承すべく翌年、歴史的な「第1回汎民族大会」が開催された。その汎民族大会の成果を持続的・組織的運動へと発展させるべく、祖国統一汎民族連合(汎民連)が結成されたのが1990年。汎民連の結成により機構としては南・北・海外をつなぐ統一運動組織ができたものの、南側は常に政権の厳しい弾圧にさらされ汎民連の会議や大会に代表を直接派遣することができなかった。

 しかし、汎民族大会10回目にして、初めて南側代表団が北部祖国の地を踏みしめ、参加したのである。

 勇気ある彼らの行動は、統一運動の着実な前進を実感させた。

 当然の事ながら、彼らは期間中のどの式典・行事においても、南側代表のメッセージを代理の朗読ではなく直接力強くアピールし、新鮮な感動を呼び、大会を引き締めた。

 99汎民族統一大祝典は、90年代の統一運動を締めくくるのにふさわしく、過去のどの大会よりも南・北・海外の3者連帯と民族大団結を誇示する大祝典となった。

 

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■感動的な南北労働者統一サッカー大会

 汎民族統一大祝典の直接関連行事ではないが、祝典を盛り上げ、統一の感動をより熱く呼び起こしたのが「統一念願南北労働者サッカー大会」であった。

 8月12日、羊角島競技場で開催された第1回南北労働者サッカー大会。5万人が収容できるという競技場は超満員で、試合開始前からあちこちで楽団の演奏があり、またウェーブが起こるほどの異様な熱気に包まれていた。

 そして、いよいよ「祖国はひとつ」の演奏とともに、赤いユニホームの南側(全国民主労働組合総連盟)の選手団と、白いユニホームの北側(朝鮮職業総同盟)の選手団が手を高くあげて入場した時、盛り上がりは頂点に達した。

 感激のあまり多くの人が涙していた。わずか十数名の南北労働者のサッカー選手の入場に何故これだけ感動し涙してしまうのか。これが統一の歓びなのか。とにかくすべての観衆が胸を熱くした。

 試合開始直後、突然、大陸のスコールというか日本の夕立ちの数倍激しい大雨に襲われたが、それでも競技場の熱気は冷めなかった。とりわけ、ずぶ濡れになりながらも、必死で旗を振りながら大声で応援をしている黄色いTシャツの日本地域本部代表団に、選手たちも激励され、心強いものを感じたのではなかったろうか。

 試合の結果は5対4で北側の「勝利」という結果だったが、「勝利」という表現は適切ではないだろう。統一サッカー大会に敗者はない。試合終了を告げるホイッスルの音と同時に交わされた南北両選手の力強い抱擁。精一杯闘ったという充実感は勿論、分断54年を経て初めて南北の労働者の交流が実現した事の感動を体全身で感じたに違いない。そしてその感動は、そのまま競技場を埋めたすべての観衆に伝わった。

 南北の選手がひとつになり、観客である北の同胞と南と海外の代表団もひとつになり、そして、選手と観客がひとつになって統一の実感を体感できた統一サッカー大会。その時の感動を共有できたすべての人が勝者といえるのではないだろうか。

 お互いのユニホームを交換して観衆に大きく手を振りながら選手たちは退場していった。赤と白のコントラストがいつまでもまぶしかった。

 民主労総代表団は13日、金日成競技場で南北混成チームによる試合を行い、予定通り14日、板門店を通って南に帰っていった。

 板門店からの帰還の模様をその日の夕方、宿舎のテレビで見ることができた。李甲用(イ・ガビョン)民主労総委員長をはじめ、代表団37名全員が目に涙をため北の同胞に手を振りながら板門店を越えて行った。その光景も思わず熱いものがこみあげてくるものがあった。1999年8月14日、南の労働者が初めて板門店を越えた。

 

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■再会の約束

 汎民族統一大祝典に参加して、改めて痛感したのが出会いの大切さだ。

 今大会で三者の初の出会いは、当然日本地域本部代表団と南側代表団の初の出会いでもあった。

 我々が11日夜遅く、平壌の宿舎に到着した時、韓総連代表の黄ヘロ氏がロビーに迎えに来ていた。そして会うや否や、韓青同の青年たちと闘争歌の合唱が始まった。

 12日夜、北側本部主催の「海外祝典代表のための歓迎宴会」では、汎民連南側の代表団2名と全国連合の代表団3名とも数年来の知人であるかのような感動的な出会いがあった。

 また、16日の歓迎の集いで、日本地域本部のアンサンブルを発表した時、南の代表は大いに感激し、羅昌淳先生は握手を、李星雨氏(イ・ソンウ 民主主義民族統一釜山連合議長)は花束を、黄ヘロ氏は感動のメモを送ってくれた。

 更に、平壌最後の17日の夜、日本地域本部が主催した南側代表との交流会では、ともに語り、歌い、そして涙した。南の代表は、皆、統一を確信し自信に満ちあふれていた。あの時の感動は忘れられない。

 翌18日早朝、日本地域本部代表団が平壌を出発する時も、南の代表団全員がロビーからバスまで見送りに来ていた。

 人と出会い、そして別れる時の言葉に「また会いましょう」(タシマンナップシダ)という言葉がある。過去何度となく、人と出会い、そして別れる際にその言葉を繰り返してきたが、18日のこの時ほど、この言葉の重さを感じた事はなかった。

  67歳という高齢にもかかわらず、南側代表の団長という大役を務められた羅昌淳先生。短髪が印象的な徐ウォンチョル汎民連青年代表。常に堂々としていた全国連合の李星雨氏。全国連合の幹部であり、民主労総のタクシー運転手で労働組合の幹部である朴キス氏。(彼には4歳と1歳の子供がいる)、童顔の姜ヒョング氏。そして、いつも元気はつらつな汎青学連南側本部(韓総連)・黄ヘロ代表。

 彼ら南の代表は、歴史の要請に応え自身の使命によって訪北を決心した。そして彼らは板門店を通って南に帰る。そこで、彼らを待っているものは・・・。

 「また会いましょう」(タシマンナップシダ)彼らとその言葉を交わした人は、その言葉の意味をかみしめ、本当にそうなるように、一日でも早くその日が来るように、闘いを強化しなければならない。

 8月は過ぎても、8月闘争は終わっていない。

 

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