◇在日同胞問題欄

「同胞もと軍人・軍属にとっての戦後」

−「神の国」に引き裂かれた半生−

金昌範(キム・チャンボム)

●はじめに

●戦後動員の始まり

●戦後処理の−断面

●韓日条約の罪過

●法廷闘争と日本政府の動き

●最後に

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●はじめに

 白装束に古びた軍帽。欠損した片腕。片足をさらしながら、もう一方の足で膝まづく。脇には「自分は天皇の命により戦地にて負傷した」ことを示すダンボール製の小さな立て看板。カンパ箱に小銭が入ると「ありがとうございます」と頭を垂れる。−ふた昔ほど前まで、 街角でであったその姿が、わが同胞一世のものであることを知る人は未だ少ない。

 日本帝国主義による祖国の植民地化と侵略戦争のもと、軍人・軍属となった彼らは、元従軍「慰安」婦や元徴用労働者とともに、「皇国」の犠牲となったまま今日まで放置されてきた、わが同胞の解放後史の象徴であると同時に、戦後日本の断面を映し出す鏡でもある。

 本稿では、彼らが軍人、軍属となった背景を把え直しながら、過去から今日まで彼らに苦渋を強いてきた原因を、できるだけ追求したい。

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●戦争動員の始まり

 陸軍士官学校生など一部を除き、当時、一般の同胞が日本の軍隊に入隊したのは、1938年4月の「陸軍特別志願兵制度」の発足以降であった。前年から中国大陸への本格的な侵略を開始した当時の日本にとって、急激な兵力補充の必要性に駆られていたためである。しかし、「志願兵」(1943年末までに2万名強)とは言え、果たしてどれほどの同胞が、「皇国軍人」となることを積極的に志願したであろうか。

 学徒兵であった慎宜銖(シン・ウィス)氏は、次のように回想する。「軍需工場で働くのが嫌で、日本大学専門部に行き、・・・・ところが、昭和18年(1943年)暮れのある朝、飯を食っていたら、小磯朝鮮総督(当時)のラジオ放送があった。小磯は、学徒兵が志願しなければ、朝鮮人の運命はどうなるか、と指摘したんです。・・・・我々が死んでいけば朝鮮人をいじめないだろうと。・・・・日本のためとか、天皇陛下なんて、とてもじゃないけど言えませんよ」(朝鮮人「皇軍」兵士たちの戦争より)

 植民地化の祖国においても「朝鮮教育令」の改定による「皇国臣民の誓い」斉唱及び「日本語常用・朝鮮語の禁止」が義務づけられる(1937年)など、皇国臣民化政策が本格化する中で、朝鮮総督の掛け声のもと、警察署長、郡長、教員らが先頭に立って、バラ色宣伝と恫喝を繰り返し、多くの同胞を戦地に送り出した。そして、軍人となったその多くは、植民地化の貧困の中で、職のない若者たちであったという。

 日本の侵略戦争が、太平洋戦争へと発展する中で、1943年3月の「兵役法」改定により、祖国の全土に徴兵制が敷かれ、同年12月には、対象年令が20歳以上から19才に引き下げられた。翌44年4月からの第1次徴兵検査では、受験率が94.5%に達するなど、文字どおり、根こそぎ動員が行なわれた。

 こうした経緯を経て、日本の敗戦までに軍人・軍属として動員された同胞は、計36万名を超えた。

 しかし、この数字も旧陸軍局から引き継いだ名簿をもとに作成されたもので、労働者として戦地に狩り出された軍夫は含まれていない。また、戦争末期に狩り出された同胞(徴兵2期入隊者)の相当数が、上記名簿から漏れているため、そうした人々は戦後、厚生省援護局が発行した「在隊証明書」「死亡証明書」「受傷証明書」を受けられずにいる可能性が高い。

 後述する「第6次韓日会談」の小委員会(1962年2月)では、こうした数字・名簿をめぐって相当なやり取りが交わされたが、そうしたやりとりも、65年の韓日条約締結後は途絶えてしまった。結局、侵略戦争に関連する資料のほとんどを公開していない日本の現状に於て、彼ら元軍人・軍属は、他の同胞戦争犠牲者・被害者と同様、日本の戦後史の「カヤの外」に置かれたまま、今日に至ってきた。

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●戦後処理の−断面

 戦後、当時連合国の占領下にあった日本では、帰還兵や軍人遺族に対して、戦前の恩給法をもとにした恩給制度がとられ、「日本国民に準ずる」境遇であった同胞元軍人・軍属もその対象になっていた。(1945年11月の連合軍最高司令部の覚書により、一部重度傷病者を除いて恩給制度は廃止)

 サンフランシスコ講和条約の発効による、日本の戦後独立ととき同じくした1952年4月、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が発効し、傷痍軍人・軍属や戦没者遺族に対する援護が再び始まった。しかし、同援護法付則第2項では「戸籍法の適用を受けない者については、当分の間、この法律を適用しない」としており、講和条約発効によって、日本国籍を離脱した(一方的に剥奪された)在日同胞は、同援護法の適用対象から除外されてしまった。

 上記条項の「当分の間」は、後に在日同胞の祖国と日本が交わすべき2国間条約または協定ができるまでの間、と解釈するのが妥当であろう。何故なら、国籍を理由に対象を選別するならば、選別された側の在日同胞の国籍のありかである祖国との間で、戦後補償を約束するのが、「加害国」日本の責任であり、道理だからである。

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●韓日条約の罪過

 しかし、戦後独立後も、米国の反共政策に加担した日本は、南北に分断された在日同胞の一方である韓国とのみ関係「正常化」のための交渉につくことになった。

 1960年11月から年末にかけて開かれた、第5次韓日会談予備会談「一般請求権小委員会」では、韓国側から、対日請求要綱8項目がはじめて提出され、そのうち5項目には、被徴用者の未収金、被徴用者の戦争被害に対する補償など、戦時動員された同胞に対する補償要求が含まれた。李承暁(イ・スンマン)独裁政権を倒した4・19革命直後であり、韓国内で民主化と統一の気運が一気に高まったこの時期こそ、韓国が日本に対して正当な賠償と補償を求める上で、絶好の機会であったと言えよう。

 そうした動きは、軍事クーデターによる朴正煕(パク・チョンヒ)政権登場以降も一時継続される。62年2月、第6次韓日会談「一般請求権小委員会」では、韓日双方からの同胞軍人、軍属、徴用労働者等に関する人数の突き合わせの応酬がなされた。(本来は応酬ではなく、ほとんどの資料を持つ日本側が当初から、全面提供すべきもの)

 しかし、結局、こうした流れも65年の韓日条約締結によって遮断される。即ち、無償3億ドル、有償2億ドルという一括賠償(日本側は「独立祝い金」と称した)によって、「両締約国は・・・両締約国及びその国民の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたことになることを確認する」(韓日請求権協定2条1項)として、戦争被害者の個人補償についての幕も同時に引いたのである。

 その後、在日同胞元軍人・軍属は、日本の国内法規による何らの救済措置も受けずに今日に至ったのである。

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●法廷闘争と日本政府の動き

 1990年代に入り、石成基(ソク・ソンギ)氏、陳石一(チン・ソギル)氏、鄭商根(チョン・サングン)氏、姜富中(カン・プチュン)氏らが相次いで、日本国に対して前記援護法に基づく障害年金及び損害賠償を請求す訴訟を起した。

 高齢化し、戦争で傷ついた体を引きずって法廷に向かう彼らの言動からは、「天皇の命によって犬のように引っ張られ、戦後、ボロ布のように捨てられ差別されたままでは、死んでも死にきれない」という思いが伝わってくる。

 昨年10月15日、姜富中氏(滋賀県に在住、80才)の同訴訟控訴判決では、姜氏らが今日まで放置されてきた点について、憲法14条(法の下の平等)及び国際人権B規約の違反の疑いがあり、国(日本国)に対して早期是正を求める判断を下した。これに対して日本政府は、2国間条約で解決済みの姿勢を固持する一方、弔慰金や見舞金の名目で、一時金を支払うための特別法を作る考えを明らかにした。

 戦争で重病・重傷を負い、高齢化した同胞元軍人・軍属にとって、日々の生活源資は確かに切実であろう。しかし、訴訟をおこした彼らが求めたものは「弱者救済」でも「慰め」でもない。日本政府が彼らに対して国家責任を回避してきたことを認め、謝罪とその反省に基づいた措置をとることである。

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●最後に

 同様に、戦場に狩り出され、傷ついた多くの同胞は、どのような心境で一連の有り様を見つめてきたのだろうか。

 元傷痍軍属の同胞を主人公に、大阪市東部(おそらく生野区)を舞台にした玄月氏の芥川賞作品「蔭の棲みか」には、主人公の息子が父親をなじる場面がある。−「何で戦争終わった時に死ねへんかったんや。よう生きて同胞の顔見れたなあ」−戦争によって体だけでなく、心にまで深い傷を負った同胞は、決して少なくないと著者は想像する。そうした傷が癒されるためには、日本がその侵略と戦争に対する国家責任を全うする国へと生まれ変わり、本国政府が在日同胞に対して同族としての視線を再び注ぐことが問われている。

 日本政府は変わるだろうか。現状では険しい道程と言わざるを得ない。それは、朝鮮民主主義人民共和国との関係正常化交渉においても、まったく無関係のテーマを持ち出して戦後補償要求をはねつけている姿にも見ることができるであろう。

 2000年5月31日、首相の「神の国」発言で揺れる通常国会において「在日外国人元軍人軍属特別給付金法」が通過した。

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