金大中氏救出運動と韓統連

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  連載   金大中氏救出運動と韓統連(8)

 

 朴正煕政権打倒をなし遂げる

 二段階運動を設定して民主化闘争を一層展開

 カーター米大統領の訪韓は、朴正煕軍事独裁政権の暴力統治にてこ入れし、韓国民衆の反独裁民主化闘争に打撃を加えることになり、これはカーター大統領自身が標ぼうしてきた、いわゆる「人権外交」に反するものだった。韓民統は、国内民衆のカーター訪韓反対闘争と歩調を合わせながら、カーター訪韓反対闘争を金大中氏救出運動と結合させて展開することにした。これにしたがって、韓民統は七九年四月二十三、二十四日の両日、各級組織代表者会議を開き、内外情勢を分析したうえで、当面課題としてカーター訪韓反対闘争を積極的に繰り広げ、金大中氏ら致事件の政治決着を白紙化させて、金氏の原状回復を実現するための運動をより一層強化していくことを決定した。

 韓民統は各級組織代表者会議の決定にもとづいて、カーター米大統領に訪韓中止を求める要請書を送るとともに手紙送付運動を積極的に展開し、六月四日には「金大中先生の原状回復を要求し、カーター米大統領の訪韓に反対する在日韓国人大会」を盛大に開いた。これに先立ち、韓民統は金大中氏の原状回復のための支援を日本の各政党と労働組合、社会団体、市民団体に要請した。とくに六月十四日には、裴東湖常任顧問と鄭在俊救出対策委員長ら幹部が園田外相と直接面談し、政治決着の白紙化と金大中氏の原状回復を強く要請した。

 韓民統の運動に呼応して、日本の良心的な国会議員は国会と政府を相手に政治決着の白紙化を主張し、法律家と文化人らで構成する「金大中事件告発人団」は、大平首相にら致事件の完全解決を求める要望書を提出した。また在日韓国人「政治犯」を支援する会全国会議は六月二十五日から座り込み闘争に突入し、日本の労組、市民団体など六十団体で構成する「カーター訪韓反対・金大中氏原状回復要求―六月行動実行委員会」もこの日、集会とデモ行進を展開した。同委員会は、この行動に先だつ六月二十三日から三日間、東京都内でも人の往来の多い主要地域で、ビラ配布などの街頭宣伝も繰り広げてきた。

 こうした集中闘争の結果、金大中氏ら致事件の完全な解決を求める世論は一層高まっていった。韓民統はこうした成果にのっとり、ら致事件発生六周年を迎えて記者会見を開き、金氏の原状回復を求める声明を発表した。さらに日本の労組などの良心勢力と共同で「金大中氏事件の政治決着の撤回を求める八・八集会」を約千四百人が集まるなか、盛大に開いた。さらに七日後の光復節三十四周年には、「民主回復・統一促進在日韓国人大会」を開き、朴正煕独裁政権を打倒して民主政府を樹立するための闘争を強化することを内外に訴えた。

 一方、YH貿易の女子労働者、金景淑氏の死亡と新民党総裁の除名を契機に、情勢は急速に変化していった。朴独裁政権に対する積もり積もった各界民衆の憤怒は極点に達していた。韓民統は高まる反独裁闘争を一層前進させるために、八月二十二日に再び「各級組織活動者会議」を招集し、「金景淑氏の虐殺蛮行と新民党に対する弾圧を糾弾し、YH労働者、農民会、新民党の闘いを支援する集中月間闘争」を九月一日から三十日まで、日本の主要都市で大々的に展開することにした。

1979.9.  この決定にしたがって、集会、デモ、街頭宣伝、声明発表、駐日大使館と領事館に対する抗議行動など、多様な運動を連続的に繰り広げた。

 韓民統は九月一日からスタートして成果的に貫徹した月間闘争を総括し、反独裁闘争をさらに発展させるための対策を討議・決定するために、十月七日に「各級組織活動者会議」を開いた。会議では、九月の月間闘争を朴独裁に最後の一撃を加える一段階の運動と規定し、二段階運動を設定して朴政権打倒運動をさらに強力に展開することを決定した。

 朴正煕軍事独裁に反対する各界民衆のし烈な闘争は、ついに釜馬民衆ほう起として爆発し、これに慌てた朴政権は釜山と馬山にそれぞれ戒厳令と衛じゅ令を発令した。しかし、この戒厳令と衛じゅ令は、まさに朴正煕自身に対する死刑宣告となっただけだった。朴政権が最も恐れていた全民抗争の炎が燃え上がり始めたのだ。米国も同様に慌てた。米国は、反朴が反米に飛び火するのを最も恐れていたのだ。民衆ほう起を防ぐためには朴正煕を取り除くことしかなかった。こうして朴正煕は戒厳令公布から八日目に、腹心中の腹心である中央情報部長、金載圭の放った銃弾によって悲惨な死を迎えることになった。

 維新残党清算闘争を積極的に展開

 朴正煕の死によって、それまで権勢を振るった維新独裁体制はあっけなく崩れてしまった。しかし、変わったものは何もなかった。維新独裁を武力で支えてきた軍部勢力と維新残党らが統治権を掌握していたためだ。彼らは戒厳令を公布して、その背後で維新体制の再編を画策していた。「維新の持続」か「民主化の実現」かの歴史の分かれ目で、各界民衆は戒厳令の撤廃と維新体制の完全清算、民主憲法の制定、すべての良心囚の釈放と復権、民主挙国政府の樹立を要求して憤然と立ち上がった。

1980.2.29   韓民統は、国内民衆の闘争に合勢して、維新残党の清算闘争とともに金大中氏の復権運動を強力に繰り広げた。韓民統はこの年の末まで、情勢報告会、民衆集会などを三回(十一月二日、十一月十三日、十二月二日)にわたって開いた。八〇年に入っても、新年会の集まりをそれまでよりも大きな規模で盛大に開き、民主化要求と金大中氏の復権に対する世論を高めていった。続いて、韓民統は二月九、十日の両日に中央委員会を開き、維新勢力の一掃と民主憲法の制定、金大中氏復権のための闘争を一層力強く繰り広げた。民主化の実現と良心囚の釈放、民主人士の復権を求める声は、いまやだれであっても無視できない時代の要請になったのであり、維新残党もこれを受け入れざるをえなくなった。そうして公民権をはく奪されていた金大中氏ら六百八十七人の民主人士は、八〇年二月二十九日に復権をかち取ることができた。ら致事件以来、一日も休むことなく弾圧にも屈せず闘ってきた韓民統は、金大中氏救出運動で第一段階の輝かしい勝利をなし遂げた。

 韓民統は、民主救国と金大中氏救出運動を先頭にたって闘ってきたという自負心を持って、三月二十四日に臨時中央委員会を開き、救出運動を誇らしく総括するとともに金大中氏救出対策委員会の解散を決定した。そして韓民統の執行部を改編して、金載華議長代行を議長に選出した。

 (つづく)

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