金大中氏救出運動と韓統連

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  連載   金大中氏救出運動と韓統連(11)

 

 決死のハンストで死刑を阻止

 韓民統は年末年始も闘い、金大中氏に対する死刑を阻止した

 二審判決で金大中氏に再び死刑判決が言い渡されると、韓民統と救出委の幹部らは、二審判決当日の十一月三日から東京の中心にある数寄屋橋公園で、「金大中氏への死刑阻止!決死無期限ハンスト闘争」に突入した。

 この無期限ハンストが続けられる間、国会議員をはじめ日本の各政党、労組、市民団体代表らが連日、ハンスト現場を訪問し、韓民統とともに闘っていくという決意を表明してハンスト団を激励した。われわれには年末年始もなかった。休む間もなく闘うのが、韓民統メンバーの日課だった。これは、それほど金大中氏救出に対する韓民統の意志が強かったということを意味する。

 韓民統は年末が迫っているにもかかわらず、多くの仕事を後回しにして、十二月十九日に韓日共同行動を行い、そこで採択した要請書を日本外務省と駐日米国大使館を訪問して担当者に直接伝達した。二十五日には都内の日本教育会館で約八百人が集い、「金大中氏への死刑判決阻止!韓日共同集会」を開催、二十九日には東京・桧町公園で「金大中氏を殺させるな!韓日共同集会」を開き、集会後には日本外務省への抗議活動を連続的に展開した。

 こうした闘争の中で年が明け、新年の八一年が訪れた。

 韓民統と救出委は、高度の緊張感を堅持しながら八一年を迎えた。この年の一月二十三日に、金大中氏らに対する大法院の最終判決が予定されていたためだ。

 ついにその日が来た。大法院判決は予測したように、軍法会議の一審、二審の死刑言い渡しを確定づける儀式にすぎなかった。全斗煥一党は大法院の判決直後、金大中氏の死刑から無期への減刑措置を発表した。これは内外世論を鎮火させるための術策であった。

 こうした政治劇に対して、全国民と世界の良心的人々は一層怒りを爆発させた。

 韓民統と救出委は当日(一月二十三日)、すぐさま声明を通して、大法院の不当判決と、国民と国際世論を愚ろうする全斗煥一党の減刑措置の政治劇を辛らつに批判し、金大中氏らすべての関連者を無条件釈放することを要求した。同時に、駐日韓国大使館に波状的た抗議デモを繰り広げた。デモ隊は大使館の要請で出動した日本警察隊と衝突、多くの人々が傷ついた。

 全斗煥一党を公式に支持した米日両政府を厳しく糾弾

 さらに、クーデターで政権を奪った全斗煥一党を公式に承認し、継続して庇(ひ)護する米日両政府を強く糾弾し、対韓政策を速やかに転換することを求めた。

 一月二十八日、全斗煥は内外の反対と糾弾のなかで、レーガン米大統領の招請を受けて米国を公式訪問することになった。全斗煥とレーガンの会談を通して、レーガンは全斗煥一党に対する全幅の支持とともに、経済・軍事援助を大幅に増加することを約束する。

 当時、全斗煥・レーガン会談を評して、救出運動関係者が次のように述べたことを今でも印象に残っている。

 「全斗煥・レーガン会談は、野戦軍司令官が『敵軍』討伐戦の戦果を最高司令官に誇らしく報告し、最高司令官は野戦軍司令官の功労をほめたたえながら、彼に最大級の表彰を与えた会談だったと言える」

 光州市民に対する許し難い虐殺蛮行をほめたのであり、全斗煥・レーガン会談で全斗煥に対する支持と信任を公式に表明した米国政府の帝国主義的政策は、それからわずかの期間で、韓国を反米の無風地帯から反米の熱風地帯に変化させることになる。

 韓米日の政治動向を常に注視していた韓民統は二月二十一、二十二日の両日、第九回中央委員会を開き、金大中氏の釈放とともに、反全斗煥・反外勢闘争をなお一層強化することを決定し、そのための実践的対策なども策定した。その対策の一つとして、韓民統は反全斗煥国際連合を構築することを内外に訴えた。

 二回目の「世界大会」を開き、全斗煥の光州市民虐殺を世界中に暴露した

 これに基づいて、光州民衆抗争一周年を迎えて、韓民統は日本の良心的人々とともに「韓国民主化支援緊急世界大会」を開くことにした。

 世界大会は五月十六―十九日まで、東京の社会文化会館で開催された(実行委員会共同代表・裴東湖、青地晨、宇都宮徳馬、槙枝元文 共同事務局長・郭東儀、小田実)。世界大会には二十七か国と三つの国際機構から著名人五十九人と、韓民統のメンバーら合わせて千六百人が参加した。

 裴東湖先生(韓民統常任顧問)と鄭在俊先生(韓民統副議長兼救出委員長)は、それぞれ全体会議と分科委員会の基調報告で、軍事独裁の暴力をはねのけて勇敢に闘う韓国民衆の反独裁民主化運動を詳細に紹介すると同時に、全斗煥一党が光州で引き起こした悪魔のような蛮行と、金大中氏らへの暗黒裁判の実態と執権以後の暴政の実態を暴露し、死をも辞さずに闘う韓国民衆の民主化闘争への支持と金大中氏らの釈放のため、各国の良心勢力が活動をより強化するよう訴えた。世界大会では裴東湖、鄭在俊先生の基調報告の内容を盛った「一九八一東京宣言」が発表された。

 この世界大会は、七六年に開かれた「韓国問題緊急国際会議」に続いて、二回目に開かれた大規模の国際会議であった。

 上記の会議と大会に対して、月刊「マル」誌の尹ジョンモ記者は九三年春に小田実氏を取材した記事で、次のように書いている。「金芝河のロータス賞をもらって帰って、しばらくして、彼は米国の一人の知人から電話を受けた。金大中氏が米国から日本に行く、何月何日、彼に会ってみろというものであった。ところが約束の二日前、金大中氏がら致された。(中略)その後、韓民統と良心勢力は頻繁に会談を持ち、朴正煕の蛮行を見過ごすことはできない、われわれも韓国政府を弾劾しなければならないとの声を高め、もう一度緊急世界大会を開こうということに意見が集まった。(中略)ご存じのように、韓民統の人たちは海外に行くことができない。それで、わたしは米国にも行って、ソ連にも行って、アルジェリアにも行くことになりました。何か、特使のようなものでした。ホホッ」(月刊「マル」九三年五月号・二百二十九号)。

 尹ジョンモ氏の記事は、次のように続けられていた。「一九八一年五月十六日から十九日の間、光州抗争に対する世界大会が大々的に開かれた。光州虐殺糾弾と追悼行事であった。初日は東京で、その次は大阪で順に開かれ、会議は分科会まで兼ねたすごい規模の大会であった。本当に韓国政府でもできないことを、日本の反体制と韓民統の同胞らが行ったのである(同誌二百三十一号)。

 世界大会の行事の一つに、パリに居住する東洋画の大家・李応魯先生の絵画展と、ベルリンに居住する世界的な音楽家・尹伊桑先生の「光州よ、永遠に」をテーマにした音楽祭も開かれた。

 この世界大会を契機に、韓国民主化運動支援と金大中先生釈放運動がさらに活発になっていった。韓民統は世界大会の成果を拡大させるための活動を多様に繰り広げた。このようななかで、ら致八周年を迎え、「韓日両政府による永久投獄糾弾!金大中氏の釈放を要求する八・八集会」が東京、横浜、名古屋、京都、大阪、四日市(三重県)など主要都市で一斉に開かれた。続いて八・一五光復節に際して、「全斗煥打倒!韓日外相会談反対!在日韓国人大会」が東京、横浜、大阪、京都の四大都市で開かれた。このように、韓民統は闘争に連続して立ち上がった。しかしこれは、決してたやすいことではなかった。

 (つづく)

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