印刷用PAGE[TOP][第1回][第2回][第3回][第4回][第5回][第6回][第7回][第8回][第9回][第10回][第11回][第12回][第13回][第14回]

連載   金大中氏救出運動と韓統連

反独裁民主化運動の先駆け 結成後に金大中氏救出運動へ

  在日韓国民主統一連合(韓統連)の前身は、一九七三年八月に結成された韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)である。韓民統の結成は在日民主人士と金大中氏との合意によるものだが、組織基盤は民団民主化闘争にさかのぼる。

 民団御用化を進めてきた朴正煕政権は、一九七一年に「録音事件」をでっち上げて民主人士に対する弾圧を強化した。そして韓国中央情報部(KCIA)と反動的な民団執行部は民団内の民主的本部を直轄し、韓青組織などの認定を取り消し、中央や地方の民主人士、青年学生らに対して除名や停権処分を乱発した。民団内民主勢力はこのような弾圧に屈せず、「民族統一協議会」を結成して統一運動を進めた。

 一人永久独裁をもくろんだ朴正煕は、維新クーデターを行った。そのときちょうど日本に滞在していた金大中氏は朴正煕政権に反対する声明を発表し、在日同胞らを基盤に反対運動を展開すると決意した。金大中氏と志を同じくした在日民主勢力は、韓民統の結成に合意した。

 韓民統の結成を準備している最中の八月八日、金大中氏がKCIAによって拉(ら)致された。在日民主勢力は金大中氏の生命の危機を直感して「金大中先生救出対策委員会」を結成し、救出運動に全力を尽くした。

 在日民主勢力は金大中氏との合意のとおり、八月十三日に韓民統を結成し、十五日に宣布大会を行った。そして初代議長に金大中氏を推戴し、民団中央本部団長を八期つとめ、第七代、第八代新民党国会議員を歴任した金載華氏が議長代行に就任した。

 韓民統の発足によって、在日同胞は民団内の極限的、分散的な運動を止揚し、明確な目的意識をもった民主愛国力量として反独裁民主化運動を展開するようになった。在日同胞運動の画期的な転換であり、発展であった。

 また歴史的にみれば、「十月維新」後に維新体制に正面から反対する合法的組織として誕生し、抑圧された韓国民衆の反維新民主化運動の開始を内外に宣言した最初の組織である。韓民統結成は韓国民衆の反独裁民主化闘争に新しい章を開いた意義深いものであった。

 韓民統の反独裁民主化運動は、金大中氏救出運動から始まった。この運動は、毎月のように在日同胞独自の集会とデモ、日本政府への申し入れ、日本の市民団体との救出集会など、考えうるすべての方法を駆使して展開し、金大中氏の生命を救った。

 また全斗煥軍部勢力が「光州民衆ほう起」を背後操縦したとして金大中氏らを内乱陰謀罪で拘束した後は、翌年一月二十三日の第三審死刑判決までの約八か月間、死にものぐるいで「第二次」救出運動を行った。

 韓民統の反独裁民主化闘争は、その年の十月二日にソウル大生らの反維新独裁闘争を呼び起こすとともに、「百万人署名請願運動」支持、「民主救国宣言」支持と「百万人署名運動」の展開、「民主救国憲章」支持と「署名推進本部」の結成など、国内闘争を全面支持・賛同し連携して展開した。そして、大統領緊急措置などによる弾圧に対しては強力な反対運動を進めた。

 また「人民革命党事件」などで拘束された民主人士の釈放と、百人を超えた在日同胞政治犯救援運動を大々的に展開し、在日同胞政治犯については一人の死刑執行も許すことなく全員の釈放、帰日をかち取った。

 韓民統は、労働者の権利保障を求めて焼身自殺した全泰一氏の生涯と、彼のオモニ・李小仙氏の闘争を記録した評伝を日本で出版するとともに、映像化して各地で上映運動を進め、韓日労働者連帯の新しい歴史をつくった。

 朴正煕暗殺後に軍部の実権を握り、戒厳令全国拡大(五・一七クーデター)で政権を強奪した全斗煥一派は、民主化を要求する光州市民に空挺(てい)部隊を投入して大虐殺した。韓民統はこの蛮行をいち早く暴露・糾弾し、「韓国民主化支援緊急世界大会」を開いて国際世論を喚起した。

 韓民統は、全斗煥一派が米国の支援のもとに光州市民大虐殺を行ったことに対して、自主・平和・民族大団結による統一と反米自主化を強く主張した。また韓日会談以降の韓日癒着を具体例を挙げながら批判した。

 米国が対北戦争策動を強化しながらチーム・スピリット軍事演習を毎年繰り返したことに反対して反戦・反核・平和運動を行うとともに、朴正煕軍事政権反対と金大中氏救出を求めて社会主義インター(SI)との連携を強化するなど国際的な連帯活動を行った。そして、これら一連の活動は日本の良心的な人士や市民団体、労働組合との韓日連帯のもとで展開され、日本の世論が韓国問題に目を向ける大きな運動に発展させた。

 韓民統の活動は海外同胞を鼓舞し、一九七七年八月に東京で海外同胞運動では初の「海外韓国人民主運動代表者会議」をもち、「民主民族統一海外韓国人連合」を結成して統一的な運動を進めるなど、内外の運動を大きく前進させた。 韓民統は一九八○年三月、「ソウルの春」を迎えるなかで、それまで議長に推戴していた金大中氏に代わって金載華氏を議長に迎えた。

連載   金大中氏救出運動と韓統連(1)

今年(一九九八年)は韓統連結成二十五周年にあたる。一九七三年八月に韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)が結成され、八九年に在日韓国民主統一連合(韓統連)へと発展的に改編したが、韓統連は二十五年間、たゆみなく韓国の民主化と祖国の統一のために一貫した闘いを展開してきた。そのために、歴代独裁政権の憎悪の対象となり、激しい弾圧を受け続けてきた。一方で韓国中央情報部(KCIA)によるら致事件の被害当事者であり、歴代独裁政権の「きゅう敵」としてさまざまな迫害を受けてきた金大中氏は、いまや韓国大統領に就任し、十月七日に日本を公式訪問する。韓民統の結成と金大中氏、金大中氏救出運動と韓民統の活動は切っても切り離せない関係にある。金大中氏は現在、拉致事件の真相を明らかにし、韓日両政府による政治決着を見直すうえで絶好の大統領職にいるにもかかわらず、解決に向けた動きはほとんど見えせいない。また、金大中氏を政治的に抹殺するために行った韓民統への「反国家団体」規定(七八年の大法院判決)も、現在に至っても撤回されず、韓統連の名誉回復が実現されないまま、構成員の韓国への自由往来が認められていない。これもまた、金大中大統領自らが解決すべきであり、解決できる問題である。韓統連の二十五年間の足跡を金大中氏救出運動を軸に振り返りながら、国家保安法の撤廃と韓統連の名誉回復の実現を強く訴える。

韓統連前史―本国独裁政権と民団民主化闘争

 民団の結成と自主化の動き

 一九四五年八月解放後、在日同胞は単一の同胞組織(在日朝鮮人連盟・朝連)を結成したが、南北の分断と対立のなかで組織は分裂し、四六年十月に「在日本朝鮮居留民団(民団)」が結成された(四八年八月、大韓民国政府樹立で在日本大韓民国居留民団と改称)。

 民団は、反共を国是とする本国政府の政策を最優先し、組織運営にも本国政府の露骨な干渉が行われたために、次第に活動に著しい混乱をもたらすようになる。その結果、本国政府の無分別な内部干渉を受け入れるのか、自治団体としての自律性を守るのかをめぐって、内部に対立と葛藤(かっとう)が起きてきた。こうした状況で、民団は六〇年の四・一九革命による李承晩政権の崩壊直後の五月、「民団第三次宣言」を採択する。これは今後、本国政府の政策に対しては、在日同胞の権益を守るという立場から是々非々の姿勢で望むことを明らかにしたもので、反共イデオロギーによって民団を政治的に利用してきた李政権の在日同胞政策を批判した画期的なものであった。

 ところが、五・一六クーデターによる朴正煕軍事政権の出現で、状況は再び変わった。軍事クーデターを追い風に、日帝時代の親日分子として有名な権逸が中央団長に就任し、民団への朴政権の干渉が始まり、駐日代表部(韓日国交正常化前の大使館の前身)を通して、民団を御用化しようとする策動が公々然と強化された。このような状況のなかで、自治団体としての民団の自主性を守ろうとする良心的な人々は、六一年十月に「民団正常化有志懇談会」(有志懇談会)を組織し、民団の自主化、民主化を要求しながら、在日同胞の法的地位闘争などを力強く繰り広げた。

 このような闘争は広範な民団同胞の支持を受け、韓日条約の締結強行後、国内外で反政府機運が一層高まるなかで、朴政権に一方的に追従していた民団中央執行部は完全に窮地に陥った。

 録音事件―民団自主守護委員会の結成

 民団内で民主化機運が高まり、圧倒的多数の同胞が民団組織の改革を望むようになった。七一年の民団中央大会では民主派が推す団長候補の当選が確実視され、同胞の期待が高まった。こうしたときに、本国政府の露骨な選挙干渉が行われたのである。

 七一年三月、民団中央大会を前にした中央委員会で、当時公使だった金在権が来賓あいさつで「某団長候補の有力な支持者が、朝総連幹部とホテルで密談し、反国家的言動を行った内容を録音した。いま公開すると選挙干渉になるから、大会後に公開して処断する」と公言した。大使館や民団中央側は、某人物とは裴東湖氏であると言いふらし、当時有志懇談会の支持を受けて出馬した兪ソクチュン候補を支持しないよう、露骨な選挙干渉を行った。結局このために、大使館側が推す李禧元が中央団長に当選し、兪候補は落選した。

 大会後、裴氏と有志懇談会は、金在権のいう録音の公開を要求したが、ついに公開されなかった。これが「録音問題」事件である。

 また駐日大使館の圧力によって、民団中央は民団の自主化、民主化闘争に参加していた民団東京本部、神奈川本部に「直轄処分」をくだし、在日韓国青年同盟(韓青同)などの傘下団体認定を取り消し、民団発展に大きく寄与した幹部や活動家を手当たり次第に権利停止や除名処分にするなどの暴挙を働いた。

 このような状況に直面した自主化、民主化勢力は、有志懇談会を基盤に新たに「民団自主守護委員会」(自主委)を組織し、民団御用化反対運動を一層強化した。

七・四南北共同声明と民統協の結成

 七二年の七・四南北共同声明の発表は、本国だけでなく在日同胞のなかにも祖国統一運動への大きなうねりを引き起こした。自主委などが全国的に共同声明支持・歓迎大会を行ったのに続いて、七月二十三日、分断後初めて、民団と総連の支部(東京・大田)が共催で七・四南北共同声明支持共同大会を開いた。これを契機に、八月七日の韓青同・朝青同共同大会、八月十五日の民団東京本部・総連東京本部共同大会など、さまざまなレベルの共同大会が開かれ、南北共同声明への支持は在日同胞の社会全般に拡大した。

 有志懇談会のメンバーは、発展する情勢に呼応して統一運動を推進する母体を結成することを決定し、八月二十日に「民族統一協議会」(民統協)を結成した。七・四南北共同声明の精神である自主・平和・民族大団結の三大原則で祖国統一を達成することを綱領とした民統協の発足により、在日韓国人運動は、民団という枠から全民族的な運動へと発展した(民族時報は七二年十一月、民統協機関紙として創刊され、韓民統発足後は韓民統機関紙となった)。

 民統協が結成されたことで、民統協、自主委、民団東京、民団神奈川、韓青同、婦人会東京による「六団体協議会」が構成された。六団体協議会は民団中央に対抗する民主勢力の拠点となり、民団民主化運動、祖国統一運動が活発に展開されることになった。この六団体協議会が、韓民統結成の組織的母体になったのである。

 金大中氏との出会い、韓民統結成へ

 一方、七一年の大統領選挙を通して長期執権に踏み出した朴政権は、七二年十月に維新クーデターを起こし、「一人永久執権体制」を築いた。朴政権は民主化・統一運動に対して過酷な弾圧を繰り広げ、国民への圧制は日ごとに深まっていった。

 情勢は、朴軍事独裁政権の圧政をはねのけ、民主化・統一運動を前進させる新たな組織と運動を求めており、六団体協議会に結集した在日民主人士の思いも同じであった。折しも、七一年の大統領選挙で朴正煕に打撃を与え、民主陣営の有力な指導者に浮かび上がった金大中氏が、日本に滞在していた。金大中氏は、維新クーデターが起きると、その暴挙を糾弾しながら、海外で民主回復と統一促進運動を繰り広げる決心を内外に明らかにした。

こうして在日民主運動の代表らと金大中氏は手をつなぎ、ともに反独裁民主化・祖国統一運動を力強く繰り広げること、その運動を指導する組織として「韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)日本本部」を結成することに七三年七月、合意した。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(2)

 韓民統結成

維新クーデターと金大中氏の亡命決意

 七一年の大統領選挙で野党候補として善戦した金大中氏は、股(また)関節の治療のため、七二年十月十一日から九日間の予定で日本を訪れていた。彼の滞日中の十月十七日、朴正煕大統領は非常戒厳令を宣布し、永久独裁体制ともいうべき「維新体制」の構築を図った(維新クーデター)。

 この維新体制に対して、金大中氏は厳しい批判を行った。

 「韓国内ではいまだれもなにも言えないし、また言う人もいない。幸いにわたしはいま国外におり、自由に意見を述べることができる。それなのに、もしわたしがいまの政権の報復を憂いて口を開かないとすれば、これは全国民を裏切ることになろう」(金大中著「独裁と私の闘争」)。金大中氏は、国外で反朴運動を展開することを決意した。これは、事実上の亡命生活に入ることを意味した。

 非常戒厳令宣布の翌日の十月十八日、金大中氏は「朴正煕大統領の措置は、統一を語りながら自身の独裁的永久執権をねらう驚くべき反民主的措置である」という声明を東京で発表したのに続き、「維新憲法案」とそれに対する国民投票(七二年十一月二十一日実施)の結果についても声明を発表、あくまで維新独裁に反対する姿勢を鮮明にした。

 米国で韓民統結成、日本でも金大中氏の路線で結成合意

 一〇・一七非常戒厳令によって亡命生活を覚悟した金大中氏は、日本と北米で反維新民主化を訴えた。日本から米国に渡った金大中氏が接触した在米韓国人は林昌栄氏(元韓国国連大使)、林炳圭氏、柳基弘氏らであった。渡米活動の集大成は七三年七月六日、ワシントンのメイフラワーホテルで開かれた韓国民主回復統一促進国民会議米国本部の発起人大会だった。在米韓国人の反朴勢力を韓民統米国本部として結集させた金大中氏は、四日後の十日、韓民統日本本部の結成を目指して、再び訪日した。  

 金大中氏は、渡米する前から在日韓国人に対して精力的な活動を展開していた。七三年二月十八日には、長野県白樺湖畔で開かれた在日韓国青年同盟第九回冬期講習会で講演した。彼は前年七二年の第八回冬期講習会でも講演を行ったが、七三年の講演内容は海外同胞に反朴決起を促す激烈なもので、金大中氏には七三年二月の時点ですでに、在外韓国人民主勢力のリーダーとしての意識があったということだろう。

  七三年三月二十一日、金大中氏は銀座にある料亭「末広」で元民団中央本部団長であり、新民党国会議員の金載華氏と会い、「(金載華)先生のご指導のもとにやっていきたい」(毎日新聞社編「金大中事件全貌(ぼう)」・趙活俊氏談)と説得し、反朴組織をともに結成することで合意した。二人は翌日の三月二十二日、箱根湯本の橘旅館で開かれた在日民主化運動活動者研修会に参加した。関東地域の在日韓国人活動家約二百人のまえで、金大中氏は「海外同胞が団結して、抑圧され虐げられている同胞のために闘おう」と演説した。その後、上記したような米国での活動を展開したのち、再訪日した金大中氏は七月二十五日、上野の宝ホテルで民団東京本部、民団神奈川本部、自主守護委員会、婦人会、韓青同などの代表三十人が参加して開いた在日韓国人民主化運動代表者会議に出席した。そして、その十日後の八月四日、上野・池之端の旅館で韓民統結成の最後の詰めをする五者会談が行われ、基本路線と人事の骨格を決めた。五者とは金大中、金載華、裴東湖(元民団中央本部議長・当時、民族統一協議会議長)、鄭在俊(民団東京本部団長)、趙活俊(金大中氏の首席秘書・後に韓民統事務総長)の各氏である。

 五者会談の内容を「金大中事件全貌」(前述)は次のように記述している。

 「五者会談で(金大中)先生はまず、民主政権を樹立してから統一実現を、というかねての基本原則を示して他の四人の了承を得ました。午後九時ごろまでの議論で綱領が決まると、先生が『わたしもサインするから、みんなも』ということで、五人が綱領にサインして韓民統の発足が決まったんです。先生の主張どおり合意をみたので、すっかりごきげんでした。最高に気分がよかったようです」(趙活俊氏談)。「(前略)五者会談では、金大中さんの路線で一致したのですから、元気百倍、実にうれしそうなようすでした」(裴東湖氏談)。

 「金大中氏は韓民統の結成が事実上決まったことで、さすがに安ど感があった。その夜、趙活俊を新宿のクラブに誘って、飲めないジンフィーズをなめていたくらいである」(「金大中事件全貌」から)。

 このような韓民統日本本部結成の経緯は、金大中氏自身も自筆の文章で以下のように語っている。

 「わたしは米国と日本、カナダに反維新民主化の拠点を作るために東奔西走した。そして、まず七三年六月に『韓国民主回復統一促進国民会議』という組織を米国で結成した。まったく同じ組織の東京本部を作るために、わたしは七三年七月に日本を訪問した」「日本でわたしが会い協議した人たちは、第八代国会議員であり、今は亡くなった金載華氏と、わたしの長い親友である金鍾忠氏、および裴東湖、趙活俊氏らであった。彼らは当時、故国でおこっている政治状況を心配し、祖国の民主化と統一を念願していた人士だった。ただ、彼らが朴正煕の維新独裁体制に反対する立場を取ったために民団内では非主流の位置に置かれたが、思想的には疑心の余地がない人たちだった」(「新東亜」八七年九月号・「朴大統領が私に副大統領を提議した」―金大中が暴露する「ら致」前後)。

 しかし、韓民統結成前の八月八日、金大中氏が韓国中央情報部(KCIA)によってら致される衝撃的な事件が発生した。これは、金大中氏が暗殺される危険とともに、韓民統の結成に支障をもたらす重大な事態であった。韓民統結成に結集した在日民主運動家らは、ただちに「金大中先生救出対策委員会」を結成して、救出運動に全力を尽くした。日本をはじめ全世界で朴政権を糾弾する声が高まり、金大中氏の生命だけは幸いにも救うことができた。

 在日民主勢力はこの難局を全力で乗り切り、予定どおり八月十三日に発起大会、十五日に結成宣言大会を開き、韓民統の歴史的な発足を宣布した。

 その当時の状況を、趙活俊氏は次のように語っている。

 「七三年八月十五日、日比谷公会堂で韓民統は予定どおり、大々的にスタートしました。議長には金大中先生が就任するはずだったが、ら致されて不在でしたので、金載華氏が議長代行に就きました。わたしは事務総長になりました。韓民統と救出委員会は表裏一体の関係で運動を進めていきました」(「ある出会い―金大中氏事件秘話」)。

 (つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(3)

 ら致事件と救出運動

 ら致事件

  韓民統結成を一週間後に控えた八月八日白昼、金大中氏が東京のグランドパレスホテルから韓国中央情報部(KCIA)によってら致された。その日、金大中氏は都内・飯田橋のグランドパレスホテルの二二一〇号室で、民主統一党の梁一東党首と昼食をとりながら懇談をしていた。そして部屋を出たところを五、六人のKCIA要員によって薬物をかがされ、地下駐車場に運ばれて車で連れ去られた。

 金大中氏は目隠しをされていたため、逃走ル−トははっきり確認されていないが、目撃者や証人、金氏自身の証言でほぼ概要が解明されている。これらを総合すると、車に乗せられた金大中氏は東名、名神高速道路で関西に行き、そこでいったんKCIAのアジトに寄った。そしてそこから船に乗せられた。金氏は船の中で足に重りをつけられ、いつでも海に投げこまれる状態になっていたという。そのとき、飛行機が飛来して何らかのやり取りの後、金氏はそのまま韓国に連れていかれた。そして八月十三日夜、ソウルの自宅付近で解放されたというものである(飛行機の飛来については、いまだ確認されていない)。

 金大中氏救出運動の展開

  韓民統の出帆は、金大中氏救出運動によって幕を開けることになった。

 これほどの衝撃的な国際犯罪は、日本でかつてなかったことであり、さらに国民的交流も少ない韓日間に起こった事件のために、日本人の反応はそれほど敏速ではなかった。そのような状況のもとで、韓民統結成に合流した在日民主勢力は果敢な救援運動を展開した。八月八日、金大中氏がら致されたことを知らされた在日民主勢力は当日、グランドパレスホテルで緊急記者会見を行い、KCIAの犯行と断定した。そして、ただちに金大中氏救出対策委員会を構成し(九日)、KCIAの犯行であることを明らかにする声明を発表した。また情報を収集する一方、自民党AA研などの政界やマスコミ、米日政府に金大中氏の救出を訴えた。

 事件直後から、権力サイドは北の犯行説や金氏自身の自作自演説、内紛説などを流して、救援運動を混乱・妨害しようとしたが、在日民主勢力は総力を挙げてこれを退け、事件がKCIAの犯行であること、金氏が生命の危機に瀕しており一刻を争うことを広く訴え、一気に日本国内の世論を高めた。このような救援運動によって、金大中氏は一命を取りとめたのである。十三日、韓民統結成発起大会の直後に、金大中氏がソウルの自宅に現れたという報告が入り、金氏の無事を知って胸をなで下ろした。

 しかし、金大中氏の身の危険はそれで去ったわけではない。凶暴な朴正煕軍事独裁政権の手中にある以上、いつ、いかなる手段で抹殺されるかわからなかった。実際、朴政権は金大中氏を「国事犯」に仕立てあげる策動や、ありもしない選挙違反事件をでっち上げた。

 韓民統を結成した在日民主勢力は、金大中氏の生命を守るために全力を挙げて日本の各界各層と世界の世論に金氏の原状回復と真相究明、責任者の処罰を訴え続けた。

 金大中氏救出委員会は八月九日以後、相次いで声明を発表し、十五日には韓民統結成宣布大会の後、第二部で「金大中先生ら致糾弾在日韓国人大会」(三千人)を開き、デモを行った。そして、韓民統と救出委員会は共催で一か月後の九月八日に東京・日消ホ−ルで「金大中先生救出韓国人決起大会」(二千人)を開いたのを皮切りに、九月二十三日に大阪・国民会館で「金大中先生救出在日韓国人関西大会」、十月十三日に東京・読売ホ−ルで「金大中先生を救出し、本国学生らの反独裁闘争を支援する在日韓国人民衆大会」(二千人)、十一月八日に東京・全電通ホールで「本国学生・知識人の民主救国闘争を熱烈に支持し、金大中先生の再来日を要求する在日韓国大会」(八百人)、そしてら致事件の政治決着を機に、日本政府が朴政権に経済援助を再開しようとしたことに対して、十二月九日に東京・読売ホールで「本国同胞の救国闘争に在日同胞も呼応しよう!本国同胞の救国闘争を支援し、韓日閣僚会議に反対して、金大中先生の再来日を要求する在日韓国人大会」(千五百人)を連続して開き、本国同胞の救国闘争を支持し、韓日閣僚会議の反対と金大中氏の原状回復を訴えた。

 また、翌年二月三日には大統領緊急措置に反対して、東京・読売ホールで「朴政権の『緊急措置権』発動の暴挙を糾弾する在日韓国人大会」(千五百人)を持ち、六月七日には金大中氏に対する選挙違反容疑の不当召喚を糾弾して「朴政権の軍事裁判を糾弾し、愛国的学生と人士らの釈放を要求する在日韓国人大会」(千余人)を開くなど、そのつど大会とデモを行い、大々的な街頭宣伝を展開した。

 金大中氏救出運動は引き続き、朴政権が金氏を抹殺しようとしたり、政治的自由を奪おうとすることに対し、そのつど断食闘争や署名運動など多種多様な戦術を駆使して日本と世界の世論を喚起し、救援運動を繰り広げて朴正煕政権の野望を阻んだ。

 金大中氏救出運動は、金大中氏ら致事件の犯人であるKCIA=朴正煕軍事独裁政権を糾弾して国際的に孤立化させることになり、金大中氏と合意した反独裁民主化・南北統一の運動を前進させることになったのである。

 一方、金大中氏救出運動は、それまで日本の良心的知識人や民主団体の間であまり知られていなかった国内外の韓国民主化運動の実情を広く知らせ、その後大きく発展する韓日連帯運動を作ることになった。(※当時、日本の良識者の間では、韓国の独裁政権に対する批判のあまり、韓国内の民主化運動を反共主義にとらわれた保守的なものと見て、過小評価する傾向があった)。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(4)

 二回の「政治決着」と韓民統弾圧謀略

 「政治決着」へと動いた韓日両政府

 韓民統と金大中先生救出対策委員会など在日民主勢力は連日、金大中氏救出と朴正煕軍事独裁政権の蛮行を糾弾する大規模な運動を展開した。韓民統は国連事務総長ら国連関係者、ニクソン米大統領ら欧米各国の首脳、非同盟首脳会議、国際編集人協会(IPI)総会など国際機関、日本の各界に金大中氏の現状回復を要請する電報を打つなどの要請活動を行った。そして、短期間のうちに世界中で朴正煕独裁政権に対する糾弾と金大中氏の現状回復、事件の真相究明を求める声が巻き起こった。

 その結果、韓日両国は九月に予定していた韓日定期閣僚会議を無期延期せざるをえなくなった。そして、日本の捜査当局はら致犯人の一人として、駐日韓国大使館員の金東雲一等書記官の指紋の検出発表まで追い込まれた。

 しかし朴正煕独裁政権は、金大中氏を八月中旬から十月二十六日まで自宅軟禁にして一切の活動の自由を奪い、韓日両政府間で事件の「政治決着」をつける準備を進めた。

  第一次「政治決着」

 韓国の金溶植外相は十一月一日の記者会見で、@金東雲一等書記官は事件に関連した疑いですでに免職にしたA金大中氏が帰国前に米国、日本でとった言動については、今後本人が反国家的言動を繰り返さないならば、責任は問わないB十一月二日に金鍾泌首相が日本を訪問して日本政府と国民に遺憾の意を表する――などと発表した。

 同日、日本でも二階堂官房長官が@韓国側の捜査で金東雲書記官の容疑が濃厚と認めたことは、日本の捜査結果とも合致するもの。金大中氏の自由の回復は喜ばしいことA金鍾泌首相の来日を歓迎する――との談話を発表した。

 そして翌二日、韓民統など在日民主勢力の反対デモのなか、金鍾泌首相は朴正煕大統領の「遺憾表明」書簡をもって日本を訪問し、田中首相との会談を経て「政治決着」をつけた。しかし、金大中氏は内外において自由ではなく、現状回復も実現せず、金東雲書記官も逮捕されなかった。

 韓日両国が内外の反対運動にもかかわらず「政治決着」をつけたのは、早期に韓日閣僚会議を開いて、「倒れいく朴正煕独裁政権」を支える必要があったためだ。韓日両政府は十二月二十六日、韓民統や日本の民主勢力の激しい反対にもかかわらず閣僚会議を開き、二百四十七億円の新規援助など朴政権支援を決定した。

 金大中氏の軟禁を「政治決着」の一週間前に解いたのは、「追いつめられた朴独裁政権の悪らつな政治的謀略」(韓民統と救対委連名の声明)だった。自宅軟禁を解かれた金大中氏は韓民統との国際電話で、政治信念は変わらず今後も闘っていく意志を表明した。

 燃え上がる国内外闘争で追いつめられた朴独裁政権

 韓民統など海外民主勢力の金大中氏救出運動と朴独裁打倒闘争は、維新クーデターの暴圧で長い間沈黙を余儀なくされた本国民主勢力に決起を促した。七三年十月二日にソウル文理大生が朴独裁打倒を叫んで決起したのを皮切りに、学生の連続決起、民主人士らの時局宣言、記者らの闘争宣言、宗教人らの人権宣言、政治家の闘争へと続き、ついに年末の改憲請願百万人署名運動へと発展した。

 韓民統や救対委はそのつど支持と連帯の集会や街頭宣伝活動を行い、また米国やヨーロッパの同胞にも同様の活動を呼びかけた。

 請願署名が瞬時に百万人達成の勢いを見せたため、追いつめられた朴独裁政権は年明けの九日、「最後の悪あがき」として「大統領緊急措置」を発令し、署名運動を武力で弾圧した。韓民統などは大統領緊急措置に反対する大会を開き、欺まん的な「政治決着」を批判して金大中氏の現状回復を求める活動を一日も休むことなく展開した。日本人も引き続き犯人の逮捕と事件の真相究明を求めた。

 韓国では七四年四月、青年学生が「全国民主青年学生総連盟」に結集して一人永久独裁を厳しく糾弾したが、朴独裁政権はこれを「民青学連事件」としてでっち上げ、多くの民主青年と学生を連行した。そして、中央情報部は韓民統の郭東儀組織局長が二人の日本人を使って本国の闘争を背後操縦したとの謀略の捜査結果を発表した。朴独裁政権がどれほど在日民主勢力を恐れていたかを証明するものであり、韓民統弾圧の陰謀の始まりを示す事件だった。

 一方、朴独裁政権は「出国を含めて自由」であるはずの金大中氏を、六七年と七一年の大統領選挙違反容疑で起訴し、法廷出頭の召喚状を送りつけた。再び金大中氏の身に危険が迫った。韓民統や救対委の救出運動は一層高まり、朴独裁政権は国際的に孤立を深めた。

 文世光事件と韓日両政府の「韓民統弾圧謀略」

 ら致事件の一周年を迎えて、朴独裁政権は日本で展開された「金大中氏の現状回復」「事件の真相究明」「独裁政権打倒」闘争で窮地に陥った。このような状況を逆転させるための一大陰謀が進んでいた。

 八月十五日の光復節式典で大統領狙撃事件が起きた。韓国側は、在日同胞の文世光が日本の旅券を持ち、大阪府警で盗まれたけん銃で大統領夫人を狙撃したと発表、またも韓民統と関連づけて弾圧しようと策動した。

 韓日両政府は七五年七月、「金東雲に関する口上書」で韓国側の金東雲捜査を終了させ、「朴大統領狙撃事件に関する口上書」で日本の「反韓国行為」の取り締まりを約束した。この二つの「口上書」は、金大中氏ら致事件の金東雲問題と文世光事件をセットにしたもので、韓日両政府が「相打ち」のかたちで「手打ち」を行ったものだ。宮沢外相は「韓国側は金大中事件についてわが国に対し最善を尽くした、と判断した。金大中事件はこれで完結した」と宣言した。「第二次政治決着」である。

 文世光は死刑判決直後に処刑され、大統領夫人狙撃事件は迷宮入りになった。文世光は一度も訪韓の経験がなく、極度の近眼で二、三メートル先も見えず、検問で引っかかった彼を大統領警護室の関係者が会場に案内したなど、狙撃事件の疑問は未解決である。

 しかしこの事件によって、金大中氏ら致事件は「完全に政治決着」された。また韓民統など在日民主勢力の金大中氏救出運動と民主化闘争は日本政府の「取り締まり対象」にされ、日本警察が韓青同中央本部を強制捜査する蛮行が現実に起きた。韓日両政府は相互に政権を支援しあうため、反対勢力への弾圧も相互に実行するという謀略を働いたのだ。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(5)

 日米で国際会議開く

 救出運動を通して韓日民衆の連帯運動をつくる

 ら致事件がKCIAの犯行であることが明白になった以上、日本政府は韓国政府に対して犯人の処罰と金大中氏の原状回復を要求すべきであった。だが日本政府は、それとは反対に韓国政府のうそで固められた捜査結果を了承し、公然とら致事件の終息へと動いた。そして政治決着という欺まん劇を演じたのである。それによって、朴正煕政権は最大の危機から一応免れることになった。

 韓民統は新たな対応を迫られた。そのもっとも有効な反撃は政治決着の不当性、とくに政治決着の裏にひそむ両国政府の不純な意図を徹底的に暴いて、憤激の世論を高めることであり、金大中氏ら致事件と反独裁民主化運動を密接に結合させて、民主化運動を強化・発展させることであると考えた。

 このような判断のもと、韓民統は直ちに行動を開始した。そして七五年八月八日、日本の民主勢力と共同で、東京の後楽園ホールで、金大中氏ら致事件の欺まん的な政治決着を糾弾する「韓日両民族憤激集会」を開いた。憤激集会には韓民統所属の在日韓国人や日本市民ら約二千人が参加した。集会は、海外での韓国反独裁民主化闘争を一層高い段階で世界的規模に拡大・発展させるひとつの契機ともなった。

 翌七六年になると、韓国でも反独裁民主化運動は一層の高まりを見せ、三・一独立運動五十七周年を迎えて、各界の民主人士らは「民主救国宣言」を発表した。反独裁民主化運動の高まりに恐れおののいた朴独裁政権は、関係者全員を拘束するという蛮行を働いた。拘束者の中には金大中氏も含まれていた。

 韓民統は前述の方針にしたがい、「民主救国宣言」への全面的な支持と拘束者の無条件釈放、朴正煕の退陣を要求する集会・デモ、駐日韓国大使館・領事館への抗議活動などを連日展開した。そして、韓青同を中心に「百万人署名運動」を展開することにした。この署名運動は六月から十月までの四か月間にわたって続けられ、その目標を達成した。百万人の署名簿は、同年十二月に青地晨氏らが(韓民統関係者には旅券が発給されないため、海外渡航が不可能だった)ニューヨークまで赴き、国連事務総長に提出して、金大中氏らの釈放と韓国の民主化のために国連が影響力を行使することを強く要請した。

 民主化運動で初の国際会議を組織する

  韓民統は百万人署名運動を推進する一方で、青地晨、小田実氏ら日本の民主人士と共同で、八月十二日―十四日にかけて「韓国問題緊急国際会議」を東京で開いた。この会議には世界十六か国から約百人の著名な政治家、学者、文化人、市民運動の代表が参加した。韓国問題に関する国際会議が開かれたのは、韓国民主化運動史上初めてであり、韓国の民主化問題を国際化するうえで画期的なできごとであった。

 国際会議では、韓民統を代表して裴東湖常任顧問(当時)が基調報告を行い、朴正煕独裁体制の実態と永久分断策を全面的に暴くとともに、朴政権に抗して闘う国内外韓国人の不屈の闘争を生々しく紹介し、韓国民の反独裁民主化と統一運動への支持、金大中氏ら拘束された民主人士釈放のために、世界の良心の支援を訴えた。

 会議は、人権と民主主義をじゅうりんし、暴圧を欲しいままにしている朴正煕政権への憤りと、韓国民の正義の闘いへの支援の熱気でわき立った。会議では韓国民の民主化と統一、平和への念願を反映した決議文が満場一致で採択され、記者会見を通して全世界に報道された。また決議文は、当時スリランカで開かれていた非同盟会議にも電送されて大きな反響を呼び起こし、朴独裁を糾弾する声は全世界に広がることになった。会議ではまた、同様の会議を米国とヨーロッパでも開くことを決めた。

金載華議長代行自ら「敬老の日」ハンストを断行

  韓民統は国際会議に続いて、その年の敬老の日(九月十五日)に金載華議長代行を中心に六十五歳以上の高齢者が「金大中、金芝河氏ら民主人士の釈放を要求する在日韓国人高齢者ハンスト」を東京の数寄屋橋公園で行った。ハンストのテントの前には「われわれには敬老の日もない」というスローガンが掲げられていた。このハンストもマスコミに大きく取り上げられ、多くの人々に深い感動と支持を呼び起こした。

 以上からもわかるように、韓民統は七六年、これまでだれもなしえなかった韓国問題緊急国際会議や百万人署名運動、高齢者のハンストなどを大成功のうちに貫徹し、金大中氏の救出と韓国民主化に大きく寄与した。

 この成果に基づいて、韓民統は七七年、反独裁民主化闘争をさらに強化することを決意した。なぜなら、朴正煕独裁政権を打倒することなくして、韓国の民主化と金大中氏の救出が実現されないと判断したからである。この判断にしたがって、反独裁民主化闘争を多様な方法で展開しつつ、前年の国際会議の合意に基づいて、米国のニューヨークと西ドイツのボンで国際会議を開く準備に着手した。

 二つの地域で国際会議を開くことは容易なことではなかったが、韓民統は現地の民主勢力と緊密な連係のもと、まず七七年四月一日―三日までの三日間、ニューヨークで「米国の新対韓政策を要求する韓米問題国際会議」を開いた。同会議には、韓国、米国、英国、フランス、日本、西ドイツなど九か国から百余人の著名人士が参加した。

 韓民統の代表は、同会議の主役の一人として参加するはずだったが、日本政府が再入国許可証の発行を拒否したために参加することができなかった。これは金大中氏ら致事件の政治決着と文世光事件の処置の際に、韓日間で取り交わされた「反韓分子の取り締まりに関する秘密覚書」(椎名メモ)によるものであったと考えられる。

 日本からの出入国を拒否された韓民統代表は、日本政府にその不当性を強く抗議する一方、ニューヨークの国際会議に準備されていた基調演説文をメッセージに代えて送ることにした。

 金載華議長代行はメッセージのなかで、@カーター米大統領の人権外交、ならびに駐韓米軍の縮小と段階的撤収を肯定的に評価しA朴正煕独裁が超憲法的な「緊急措置」を乱発して暴圧政治をさらに強めている実態を暴露し、獄中で迫害を受けている数多くの民主人士の釈放のために緊急措置をとりB米国の対韓政策は、南北の統一された全民族との友好親善を図る方向へと是正されなければならない――と強調した。

 ニューヨークの国際会議を通して、金大中氏を含む民主人士の救出と韓国民の民主化闘争への支持は全米に広がることになった。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(6)

 海外民主勢力が韓民連を結成

 「民主救国憲章署名運動」を支持して「海外同胞推進本部」を構成

 韓民統がニューヨーク国際会議の成功のために奔走しているとき、本国の民主勢力は七七年三月二十二日に「民主救国憲章」を発表したのに続いて、四月十五日に「民主救国憲章署名推進本部」を結成し、「民主救国憲章の道」を発表した。

 韓民統は五月十五日に緊急代表者会議を招集し、本国民主勢力の「民主救国憲章署名運動」に呼応して世界的な範囲で署名運動を展開することを決定し、推進機構として「民主救国憲章署名運動海外推進本部」を構成した。韓民統の提起は世界各地に居住する海外同胞と民主団体の支持と歓迎を受け、全世界的な規模で署名運動が活発に展開された。

 前中央情報部長・金炯旭が許しを請う手紙を寄せる

 民主救国憲章署名運動が世界各地で展開されるにしたがって、金大中氏救出運動も一層活気を帯びるようになった。時あたかも、米下院外交委国際委員会は韓国問題に関する公聴会を開いていた。六月二十二日、この公聴会の証人として出頭した前中央情報部長の金炯旭は、「金大中ら致事件はKCIAの犯行であり、朴正煕の許可なしには遂行できず」「日本の警視庁は事件を事前に知っていた」という重大な事実を明らかにした。

 政治決着の虚構性が再びあらわになり、韓日両国はまたしても窮地に追いつめられた。この爆弾証言を引き出したのは、韓民統の屈することのない運動である。金炯旭は爆弾証言の後、韓民統に過去の過ちの許しを請い、しっかり闘ってくださいとの激励の手紙を送ってきた。韓民統は金炯旭の爆弾証言を契機に、金大中氏救出運動を一層強化することにした。

 韓民統は六月二十三日の記者会見で@政治決着の破棄Aら致事件の真相調査と公開B日本の国会内に超党派の調査委員会の設置C金大中氏の原状回復――などを強く要求する声明を発表した。続いて、七月五日には東京で「金大中先生の原状回復要求緊急集会」を開き、先の記者会見で明らかにした要求事項を盛り込んだ決議文を採択し、園田内閣官房長官(当時)に提出した。

 韓民統の活動に呼応し、日本の良心勢力も一層声を高く上げるようになった。

 森川金寿、藤島宇内氏ら日本の著名な法曹人、文化人によって構成された「金大中事件告発人団」は七月七日、記者会見を持ち、福田内閣は金大中氏ら致事件が朴政権による組織的犯罪であることを公式に認定し、金大中氏の原状回復によって金氏の人権回復を朴政権に要求せよ――など五項目の要望書を発表し、日本政府に伝達した。

 韓民統は救出運動を一層高揚させるために八月七日にも集会を開き、集会後のデモ行進で世論を高めた。

 海外民主勢力が総結集して「民主民族統一韓国人連合」を結成

  一方、韓民統は、海外で反維新独裁と金大中氏救出世論を高め、海外運動を形成する目的で「海外韓国人民主運動代表者会議」の開催を世界各地の同胞民主団体に提起した。全海外同胞連合組織を形成する基調は、民主救国憲章署名運動と金大中氏救出運動を通してすでに作られていた。韓民統の発起によって、世界各地の同胞団体代表らは八月十二日から十四日までの三日間、東京で「海外韓国人民主運動代表者会議」を開き、「民主民族統一韓国人連合」(韓民連)を結成した。

 大陸と大洋をこえて駆けつけた参加者の胸には、極悪な朴正煕ファッショ統治を退け、事大主義の屈従から抜け出て、民族の尊厳と祖国の自主権を保障する自主・自立の遠大な抱負と構想にあふれていた。

 二日目の会議途中、突然、暴徒数百人が叫び声をあげて会議場に押し寄せ、会館正門を破壊して三階の会議場への乱入を図り、会場を警護していた韓青同盟員との間で一大乱闘劇を繰り広げた。凶器を振りかざして押し寄せる暴徒らを素手で食い止めた韓青盟員には、数多くの負傷者が出た。

 この暴徒は、言うまでもなく、この会議に衝撃を受けた朴政権が駐日大使館のKCIAに命じて動員した民団中央とその傘下団体の青年会の暴力輩らであった。

 韓民連の結成は、海外同胞運動の発展に新たな章を開く画期的な出来事であった。韓民連が結成されたことで、海外民主勢力は分散性を克服して一つに結束し、その団結した力で自主・民主・統一運動をより高い次元で強力に展開できるようになった。韓民連が結成された結果、とくに国際連帯運動を全世界的規模に拡大できる強力な政治的武器を持つことになった。

 東京でブラント社会主義インター議長と会談し、国際政治活動の地平を切り開く

  七七年末の十二月十六日、朴正煕独裁政権は金大中氏を晋州刑務所からソウル大学付属病院に移送した。これは国民世論を鎮めるための姑(こ)息な術策であった。これに対して、韓民統はただちに金大中氏の釈放を要求する声明を発表した。この日に発表された韓民統の声明は、ちょうど東京で開かれていた「社会主義インター」(SI)首脳会談の大きな反応を呼び起こした。当時SI議長は西ドイツの社会民主党党首のブラント氏であった。ブラント議長は、故尹伊桑・韓民連欧州本部議長とは親密な間柄だった。「東ベルリン事件」に関連して死刑判決を受けた故尹伊桑氏ら関連者の原状回復を実現した人物がブラント氏だった。

 このような関係から、ブラント議長と韓民連、韓民統代表との会談は十八日、東京のプレスセンターで実現した。この会談で、故裴東湖・韓民連共同議長兼韓民統顧問と故金載華・韓民統議長代行、故尹伊桑・韓民連欧州本部議長は、韓国国民の民主化と祖国統一運動、金大中氏の救出にブラント議長の協力を要請した。ブラント議長は韓民連、韓民統の要請を快く受け入れ、韓民連のSI加盟に賛成するという格別な友好の情を表してくれた。ブラント議長と韓民連、韓民統代表との出会いは、その後、とくに光州抗争以後の金大中氏救出運動で、大きな威力を発揮するようになる。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(7)

 映画「オモニ」を全国で上映

 韓民連、韓民統代表が初めてSI幹事会に参加

 韓民統は結成四年目に、全世界的な同胞組織の民主民族統一韓国人連合(韓民連)を結成した。韓民連はその年に、当時、西側で最も権威の高かった国際政治組織の社会主義インター(SI)と深い連帯関係を結んだ。

  韓民連が結成され、社会主義インターとの連帯関係が深まったことで、朴正煕独裁政権に対する国際的な包囲網が二重に形成された。韓民統はこの組織的、政治的成果に依拠して、民主化と金大中氏救出のための最後の総力戦を展開することにした。これに伴って世界各地では朴独裁政権を連続的に、多発的に圧迫する闘争を七八年の年頭から力強く展開した。

 それに先立って、七七年九月十五日に日本の法曹界と文化人が中心になり、韓民統の協力で開廷した「金大中事件国民法廷」の全ぼうを内容とした記録映画「金大中事件告発・国民法廷」の上映運動を一月二十八日から展開した。一方、韓民統は日本社会党と提携して、社会主義インターが七八年二月八、九の両日、西独のボンで開いたSI幹事会への参加招待状を送付させた。金大中氏救出運動の国際世論を高めるための措置であった。

  「民主化戦取百日間運動」で救出運動を一層高めた

 続いて韓民統は二月十二日に第六回中央委員会を開き、「維新選挙拒・民主化戦取百日間運動」を決定した。韓民統は百日間運動を通して朴政権に対する圧迫を強化しながら、金大中氏救出運動を間断なく高揚させていった。百日間運動の期間中、韓民統は三・一節五十九周年を迎えて在日韓国人決起大会を開き、大会後デモ行進を力強く展開した。大会の中心スローガンは維新選挙反対と金大中氏の釈放・原状回復であった。以降、大衆集会と街頭デモは日本の主要都市で行われたが、東京だけでも四月十六日、五月十七日、七月二日、八月八日、八月十五日、九月二日、十月十七日と七回以上も連続的に行った。

 それだけでなく、この期間、韓民統は九月十一日からは東京の数寄屋橋公園で、金大中氏の釈放と原状回復を実現させるための断食闘争を行った。韓民統の断食闘争の動きを知った金大中氏は、連帯メッセージを送ってきた。一方、金載華・韓民統議長代行は金大中氏の健康を案じて尹ボソン・前大統領に直接電話をかけ、金大中氏に断食闘争をやめるよう要請することもした。

 全泰壱氏の闘争を描いた映画「オモニ」を制作し、日本全国七百余か所で上映

韓民統は闘争の山場をさらに高めた。日本の労働者をはじめ広範な各界の団体と市民に、軍部統治下の韓国の実情をより正確に、全面的に認識させ、韓民統への支援を強化するために、韓国労働運動の先駆者である全泰壱氏の生涯を映像化した映画「オモニ」を制作し、全泰壱氏の抗議焼身自殺八周年に合わせて上映運動を展開した。金大中氏救出運動と政治犯の釈放、韓国労働者ら各界民衆の闘争を主題にした映画制作は、これで四つ目になる。

 「オモニ」上映運動は日本労働組合総評議会(総評)の全面的な支持協力のもとに、日本全国で七百余回にわたって行われ、上映会場は韓国労働者への連帯と金大中氏救出運動支援に対する熱気で充満していた。韓民統は「オモニ」上映運動と並行して「全泰壱評伝」の日本語版も発刊し、日本労働者の中に広く普及した。このように韓民統は連続的な集会と示威、断食闘争、映画上映運動、必要に応じて声明発表と記者会見などを通して精力的に活動し、百日間運動をさらに三十日間延長し闘争を間断なく高揚させていった。

 また特筆すべきことは、七六年に東京で開いた、韓国民主化運動史上かつてなかった「韓国問題国際会議」の欧州版である「韓国問題緊急国際会議」を、この期間の六月五、六日の二日間にわたって、西独のボンで開いたことだ。この会議には欧州、米州、アジア地域から著名な政治家、学者、文化人ら五十五人が参加した。会議では、朴正煕軍事ファッショ政権の暴圧政治に深刻な憂慮を表明し、金大中氏ら民主人士と労働者に加えられている反人道的弾圧を中止し、彼らの釈放と人権を尊重することを要求する決議文を満場一致で採択した。

 金大中氏の釈放を闘いとり、同氏から救出運動への謝意が寄せられる

 七八年は国内でも反維新闘争が前例なく強化された年であった。国内外で力強く高揚する反独裁民主化闘争と、日ごと強化される国際世論を前に、朴正煕は譲歩せざるをえない窮地におちいった。そして朴正煕は十二月二十三日、金大中氏を釈放せざるをえなくなった。救出運動はついに大きな勝利をかちとった。

  韓民統と救出対策委員会はこの日、記者会見をもち、金大中氏ら致事件の真相究明と責任者処罰、金大中氏の原状回復のために継続して闘う決意を内外に再びせん明にした。記者会見の途中、金大中氏と通話できた。裴東湖常任顧問と金大中救出委員長は各々釈放を祝いながら、健康の早期回復を願う同胞の真心を伝えた。金大中氏は「今回の措置(釈放)は国内外の良心的な人々が闘ってくれた結果であり、皆さんに感謝する」と謝意を表した。

 七八年が暮れ、朴正煕軍事独裁政権が悲惨な最期を遂げる七九年の新年が明けた。金大中氏釈放の成果に鼓舞された韓民統は、天をつく勢いで「オモニ」上映運動を大衆運動の中心軸に立て、反独裁民主化運動を一層力強く推進していった。一方、国内では尹ボソン、咸錫憲、金大中氏を共同議長とする「民主主義と民族統一のための国民会議」が三月四日に発足し、民主化闘争が一層組織的に展開できる組織的基盤が準備された。国民会議の共同議長である尹ボソン、咸錫憲、金大中氏は五月一日、カーター米大統領の訪韓反対声明を発表した。これを契機に、カーター訪韓反対運動が国内外で遼(りょう)原の火のように広がった。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(8)

 朴正煕政権打倒をなし遂げる

 二段階運動を設定して民主化闘争を一層展開

 カーター米大統領の訪韓は、朴正煕軍事独裁政権の暴力統治にてこ入れし、韓国民衆の反独裁民主化闘争に打撃を加えることになり、これはカーター大統領自身が標ぼうしてきた、いわゆる「人権外交」に反するものだった。韓民統は、国内民衆のカーター訪韓反対闘争と歩調を合わせながら、カーター訪韓反対闘争を金大中氏救出運動と結合させて展開することにした。これにしたがって、韓民統は七九年四月二十三、二十四日の両日、各級組織代表者会議を開き、内外情勢を分析したうえで、当面課題としてカーター訪韓反対闘争を積極的に繰り広げ、金大中氏ら致事件の政治決着を白紙化させて、金氏の原状回復を実現するための運動をより一層強化していくことを決定した。

 韓民統は各級組織代表者会議の決定にもとづいて、カーター米大統領に訪韓中止を求める要請書を送るとともに手紙送付運動を積極的に展開し、六月四日には「金大中先生の原状回復を要求し、カーター米大統領の訪韓に反対する在日韓国人大会」を盛大に開いた。これに先立ち、韓民統は金大中氏の原状回復のための支援を日本の各政党と労働組合、社会団体、市民団体に要請した。とくに六月十四日には、裴東湖常任顧問と鄭在俊救出対策委員長ら幹部が園田外相と直接面談し、政治決着の白紙化と金大中氏の原状回復を強く要請した。

 韓民統の運動に呼応して、日本の良心的な国会議員は国会と政府を相手に政治決着の白紙化を主張し、法律家と文化人らで構成する「金大中事件告発人団」は、大平首相にら致事件の完全解決を求める要望書を提出した。また在日韓国人「政治犯」を支援する会全国会議は六月二十五日から座り込み闘争に突入し、日本の労組、市民団体など六十団体で構成する「カーター訪韓反対・金大中氏原状回復要求―六月行動実行委員会」もこの日、集会とデモ行進を展開した。同委員会は、この行動に先だつ六月二十三日から三日間、東京都内でも人の往来の多い主要地域で、ビラ配布などの街頭宣伝も繰り広げてきた。

 こうした集中闘争の結果、金大中氏ら致事件の完全な解決を求める世論は一層高まっていった。韓民統はこうした成果にのっとり、ら致事件発生六周年を迎えて記者会見を開き、金氏の原状回復を求める声明を発表した。さらに日本の労組などの良心勢力と共同で「金大中氏事件の政治決着の撤回を求める八・八集会」を約千四百人が集まるなか、盛大に開いた。さらに七日後の光復節三十四周年には、「民主回復・統一促進在日韓国人大会」を開き、朴正煕独裁政権を打倒して民主政府を樹立するための闘争を強化することを内外に訴えた。

 一方、YH貿易の女子労働者、金景淑氏の死亡と新民党総裁の除名を契機に、情勢は急速に変化していった。朴独裁政権に対する積もり積もった各界民衆の憤怒は極点に達していた。韓民統は高まる反独裁闘争を一層前進させるために、八月二十二日に再び「各級組織活動者会議」を招集し、「金景淑氏の虐殺蛮行と新民党に対する弾圧を糾弾し、YH労働者、農民会、新民党の闘いを支援する集中月間闘争」を九月一日から三十日まで、日本の主要都市で大々的に展開することにした。

 この決定にしたがって、集会、デモ、街頭宣伝、声明発表、駐日大使館と領事館に対する抗議行動など、多様な運動を連続的に繰り広げた。

 韓民統は九月一日からスタートして成果的に貫徹した月間闘争を総括し、反独裁闘争をさらに発展させるための対策を討議・決定するために、十月七日に「各級組織活動者会議」を開いた。会議では、九月の月間闘争を朴独裁に最後の一撃を加える一段階の運動と規定し、二段階運動を設定して朴政権打倒運動をさらに強力に展開することを決定した。

 朴正煕軍事独裁に反対する各界民衆のし烈な闘争は、ついに釜馬民衆ほう起として爆発し、これに慌てた朴政権は釜山と馬山にそれぞれ戒厳令と衛じゅ令を発令した。しかし、この戒厳令と衛じゅ令は、まさに朴正煕自身に対する死刑宣告となっただけだった。朴政権が最も恐れていた全民抗争の炎が燃え上がり始めたのだ。米国も同様に慌てた。米国は、反朴が反米に飛び火するのを最も恐れていたのだ。民衆ほう起を防ぐためには朴正煕を取り除くことしかなかった。こうして朴正煕は戒厳令公布から八日目に、腹心中の腹心である中央情報部長、金載圭の放った銃弾によって悲惨な死を迎えることになった。

 維新残党清算闘争を積極的に展開

 朴正煕の死によって、それまで権勢を振るった維新独裁体制はあっけなく崩れてしまった。しかし、変わったものは何もなかった。維新独裁を武力で支えてきた軍部勢力と維新残党らが統治権を掌握していたためだ。彼らは戒厳令を公布して、その背後で維新体制の再編を画策していた。「維新の持続」か「民主化の実現」かの歴史の分かれ目で、各界民衆は戒厳令の撤廃と維新体制の完全清算、民主憲法の制定、すべての良心囚の釈放と復権、民主挙国政府の樹立を要求して憤然と立ち上がった。

  韓民統は、国内民衆の闘争に合勢して、維新残党の清算闘争とともに金大中氏の復権運動を強力に繰り広げた。韓民統はこの年の末まで、情勢報告会、民衆集会などを三回(十一月二日、十一月十三日、十二月二日)にわたって開いた。八〇年に入っても、新年会の集まりをそれまでよりも大きな規模で盛大に開き、民主化要求と金大中氏の復権に対する世論を高めていった。続いて、韓民統は二月九、十日の両日に中央委員会を開き、維新勢力の一掃と民主憲法の制定、金大中氏復権のための闘争を一層力強く繰り広げた。民主化の実現と良心囚の釈放、民主人士の復権を求める声は、いまやだれであっても無視できない時代の要請になったのであり、維新残党もこれを受け入れざるをえなくなった。そうして公民権をはく奪されていた金大中氏ら六百八十七人の民主人士は、八〇年二月二十九日に復権をかち取ることができた。ら致事件以来、一日も休むことなく弾圧にも屈せず闘ってきた韓民統は、金大中氏救出運動で第一段階の輝かしい勝利をなし遂げた。

 韓民統は、民主救国と金大中氏救出運動を先頭にたって闘ってきたという自負心を持って、三月二十四日に臨時中央委員会を開き、救出運動を誇らしく総括するとともに金大中氏救出対策委員会の解散を決定した。そして韓民統の執行部を改編して、金載華議長代行を議長に選出した。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(9)

 第二の救出運動を積極的に展開

 全斗煥・盧泰愚一派が光州市民二千人を虐殺し、政権を強奪

 民衆の抵抗によって朴正煕政権が破滅すると、維新体制の解体と民主化の実現を求める韓国民衆の意志が活火山のように噴出する「ソウルの春」が来た。しかし全斗煥を頭目とする新軍部勢力は、崔圭夏を大統領の座にすわらせて、裏では成長する民主勢力に対応できるよう、維新体制を凌駕(りょうが)する独裁政権の再構築を密かに準備していた。彼らのこのような陰謀は、一二・一二クーデターを経て五・一七戒厳令拡大措置に続き、それに反対して立ち上がった光州市民のほう起を野獣のように弾圧し、権力を奪取する「血のクーデター」の断行として表れた。

 「血のクーデター」で全斗煥がすべての権力を掌握することになった。全斗煥政権は、朴正煕政権をさらに上回る凶暴な軍事独裁政権であった。数千人の同族を殺りくして執権した経緯に対してはいうまでもなく、すでに二月に復権した金大中氏を「内乱陰謀罪」にかけて死刑を宣告するなど、暴挙をためらわずに強行する暴力集団であった。民主勢力に対する無慈悲な抹殺策動によって、本国の民主勢力は合法運動空間を一斉に封鎖され、地下運動に入らざるをえなかった。

 このような状況で、公開的な運動は韓民統をはじめとした海外運動が担うことになった。

  新軍部勢力の残虐性を国際的に暴露

 韓民統は、全斗煥軍事独裁政権の罪状を世界に告発して断罪する活動とともに、金大中氏の救出のために再び奮起した。五・一七クーデター後、すぐに光州市民の闘争を積極的に支持・声援する運動を展開してきた韓民統は、新軍部の武力弾圧で光州ほう起が鎮圧された厳しい事態に対して、六月一日から全斗煥の光州市民虐殺蛮行を糾弾し、金大中氏抹殺の陰謀を暴露し、彼の釈放を要求する活動を猛烈に繰り広げた。

 とくに運動の効果を高めるため、すぐさま光州市民の英雄的な闘いの様子と弾圧軍の暴虐無道な殺人蛮行の現場を録画した資料を集め、映画「韓国一九八〇年―血の抗争」を制作、六月十日から日本各地で上映運動を大々的に繰り広げ、光州で犯した全斗煥一派の蛮行を在日同胞と日本市民に広範に宣伝し、知らせていった。またこの映画をヨーロッパと米国の同胞民主団体にも送り、そこでも上映を行えるようにし、反全斗煥闘争と金大中氏救出運動の戦線を拡大していった。軍事独裁統治のもとで、全斗煥一派の光州市民虐殺の現場を映画として制作し、威力ある宣伝武器として活用されたのは、この映画が唯一のものだ。この映画上映運動の波及効果は大変なものだった。全斗煥一派の殺人蛮行を糾弾し、光州民衆ほう起と関連させながら、金大中氏抹殺陰謀の糾弾と彼の釈放を要求する声が、世界の至るところでこだますることになった。

 しかし、暴虐無道な全斗煥一派は、ついに軍事裁判で金大中氏に死刑を宣告した。金大中氏に死刑を宣告した全斗煥一派の暴挙に、沸き立つ怒りを抑えることができなかった。韓民統は緊急会議を開き、全斗煥一派の打倒と金大中氏救出を当面の二大課題として決定し、その実現にすべての力を集中していくことになった。これに従い、韓民統は、八〇年二月に解散した「金大中先生救出対策委員会」を再び復活させることにし、行動として、暗黒裁判の事実を随時暴露する声明、記者会見、講演会、宣伝物配布などを最大限に強化し、これと並行して断食闘争、大衆集会とデモ、日本国会に対する請願緊急署名運動、国連に送る百万人署名運動を繰り広げた。日本の国会に対する請願署名運動では七十万人の署名を集めて出し、国連に送る署名は目標を超過、百二十万人の署名を集め、それぞれ関係当局に提出した。大衆集会と街頭デモも、六月一日から金大中氏が米国に「追放」される時まで、数十回開かれた。

 全国で「金大中氏を殺すな」の波を起こす

 とくに韓民統は救出運動の雰囲気をさらに高めるため、その年の八月の一か月間だけでも四日と八日、十五日と三回にわたって大規模の集会を開き、集会後に街頭デモを繰り広げた。これと並行して八月十三、十四日の両日にかけ、日本、米国、ヨーロッパなどで活動している民主団体代表百余人で「緊急海外韓国人代表者会議」を開き、この会議で金大中氏救出運動を全世界的に拡散させるために「金大中先生救出海外韓国人連絡会議」を構成した。「緊急海外韓国人代表者会議」は、金大中氏救出運動を拡大・強化させるのに新たな契機を作る意義深い会議であった。

 韓民統はまた、日本をはじめ、権威ある国際機構と世界の良心勢力に金大中氏の救出を訴え、各界各層の共同行動を連続的に繰り広げた。まず韓民統は、日本の各政党、労働団体、市民団体、法曹界、文化界などに、金大中氏救出運動に対する協力と効果的な行動を取ってくれるよう呼びかける要請活動を精力的に繰り広げた。韓民統の要請に日本の各界は積極的に呼応した。日本の各界の団体と人士らは、日本各地で多様な救出運動に立ち上がった。とくに日本でもっとも力のある団体「日本労働組合総評議会」(総評)は、記者会見で金大中氏救出運動を行うことを公式に決め、続いて各界別の組織と人士を網羅した「金大中氏救出日本連絡会議」を八〇年七月十一日に発足させ、まず一千万人署名運動を展開することを決定した。

 総評の主導で「金大中氏救出日本連絡会議」が構成されたことで、それを契機に日本人の中での金大中氏救出運動は前例なく高まった。救出運動の熱気が日ごとに高まるなか、八〇年十月九、十日の両日に、東京で日本の法曹界と文化人が中心となって「金大中裁判調査・糾弾国民法廷」が開廷した。韓民統代表と救出運動代表が証人となり、金大中氏の抹殺をもくろむ全斗煥一派の暗黒裁判の実態をひとつひとつ暴露し、韓民統を「反国家団体」に規定した全斗煥一派の政治的意図まで余すことなく暴いた。韓民統と救出委代表の証言は、国民法廷の関係者と傍聴人千余人の日本人らに大きな感動と信頼を深めさせた。

 (つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(10)

 国際的な救出運動を作り出す

 軍法会議での死刑判決に抗議して記者会見を開き、緊急声明を発表

 一方、全斗煥一党は海外の厳しい世論を無視して金大中氏を抹殺するための裁判を強行し、八〇年九月十七日に死刑を宣告したのに続いて、十一月三日の控訴審判決でも死刑を宣告した。これは全斗煥一党が金大中氏を処刑するために、どれほど狂奔していたかを示すものだ。金大中氏には死の危機が刻一刻と近づいていた。

 死の危機に直面した金大中氏の生命を救う道は、ひとえに韓民統が全力で救出運動を強化することであり、そうすることで国際世論を高めて全斗煥一党を追いつめ、金大中氏の処刑を断念せざるをえない状況をつくり出すことであった。

 こうした決意のもとに、韓民統と救出委は一審で死刑の宣告が下された直後に記者会見を開き、起訴内容と判決内容の虚構性、ねつ造性とともに、軍事裁判の政治的背景と不純な意図をひとつ残らずあばき、全世界の良心が金大中氏の救命のために声を高め、各国政府が実効性ある措置を取るなど、最大の影響力を行使するよう訴える緊急声明を発表した。声明は、世界の著名人士と権威ある国際団体、各国政府に送られた。

 そして、韓民統、救出委に網羅された関東地域の活動家は記者会見後、日本外務省への抗議活動を行った。ひどくあわてた日本外務省は、北東アジア課長代理を立てて抗議団代表との面談に応対した。抗議団代表は日本政府に対して、@不当な「政治決着」を撤回しA金大中氏の生命の安全を確保するために実効性ある措置を取りB全斗煥殺人集団への支持政策を中止すること――などを強く求めた。

 韓民統と救出委が九月十七日、即座に組織した内外記者会見で発表した緊急声明と日本外務省への抗議・要請行動は、日本はもちろん、マスコミを通じて全世界に広く知られ、大きな反響を呼び起こした。

 友好関係にあった西ドイツ外相が、EC共同体加盟の各国外相に影響力行使を提議

 金大中氏ら致事件以後、韓民統の世界的な連合組織である韓民連と尹伊桑・韓民連ヨーロッパ本部議長を通じた金大中氏救出要請に友好的に協力してくれたゲンシャー西ドイツ外相は、死刑宣告が下された翌日(現地時間十七日)、EC共同体の外相らに「韓国軍法会議が金大中氏に死刑判決を言い渡したことに共同で対処し、同時に死刑を執行できないよう各国から強い警告を通報すること」を提議した。世論に押されて日本と米国も十八日、ワシントンで開かれた伊東日本外相とマスキー米国務長官の会談で、金大中氏の死刑宣告に憂慮を表明することになった。

 また九月二十六日には「社会主義インター」(議長・ブラント西ドイツ首相)のカールソン事務局長が東京で韓民統代表と会談したのち、日本社会党・河上国際局長とともに記者会見をもち、「万一、死刑が執行されるならば、韓国は国際的打撃を被るだろう」と警告し、すでに十八日に「死刑宣告は国際的な法の基準に反するもの」という声明を発表したことを明らかにした。そして、十一月十三日からスペインのマドリードで開催される「社会主義インター」会議に韓民連・韓民統代表を招待し、韓国情勢に関する報告を聞くことに決定している事実まで明らかにした。

 日本の労働者が連続して「国民大会」を開き、港湾労働者は韓国船の荷役を拒否

 金大中氏の生死問題をめぐって、時間的に緊迫した闘争を全世界的に展開していた韓民統は、この運動で大きな勝利を収めていた。ここで特記すべきことは、「金大中氏救出日本連絡会議」は韓民統と緊密な連携のもとで、死刑判決が宣告された当日午後六時から東京の日比谷野外音楽堂で「軍法会議を中止せよ!金大中氏らを釈放せよ!九・一七国民大会」を開いたことだ。この大会には飛鳥田・社会党委員長、宇都宮・参議院議員、田・社民連代表、槇枝・総評議長、青地・連絡委代表と裴東湖・韓民統常任顧問兼韓民連首席議長、鄭在俊・救出委委員長ら一万七千人が参加した。この大会で、鄭在俊委員長はあいさつを通して「軍法会議は暗黒政治裁判であり、死刑宣告は天人ともに怒る暴挙である」と断罪し、救出運動をより一層強化しようと訴えた。

 またこの日、国鉄労働組合(国労)は全国の駅で抗議の汽笛を鳴らし、全日本港湾労働組合(全港湾)も死刑宣告に抗議し、すべての港湾で韓国船籍に対する貨物の積み降ろしを拒否した。外国の一個人の生命をめぐって、日本の労働者がこのような抗議行動に立ち上がったのは、日本労働運動史でかつてなかった出来事だった。

 「九・一七国民大会」は救出運動を日本全域に拡散する起爆剤となった。それは「九・一七国民大会」以降、各都市で労働者、政治家、学者、文化人、市民ら各界の人士と韓民統の会員らによって各種集会とデモが連続的に開かれ、日本社会は金大中氏救出運動一色に包まれた。

 全斗煥を支持する日本政府が、韓民統などの国連派遣代表団の再入国許可を発給せず

 韓民統は高揚する雰囲気を引き続き高めるために、十月五日に「金大中救出・国連要請団派遣・韓日連帯全国集会」を開いた。集会では鄭在俊委員長、金鍾忠副委員長、郭東儀事務局長、朴皇淳・韓民統中央委員、郭元基・韓青同委員長ら五人を国連要請団として構成した。要請団は百万人の救命署名簿を持参し、国連人権委に金大中氏の救出のために国連が影響力を行使するよう要請することになっていた。しかし日本政府が再入国許可の発給を拒否したために、韓民統・救出委の代表は行けなくなった。そこで署名簿を佐々木秀典弁護士と伊藤成彦・中央大教授に委託し、十一月五日に国連に伝達した。

 勝利は最後まで闘う者だけが得ることのできる栄光である。韓民統は国連要請団を派遣した直後の十一月八日、三日の控訴審での死刑判決に抗議して東京の清水谷公園で「金大中氏が危ない!死刑判決糾弾!国会請願一一・八韓日連帯緊急集会」を開き、韓日両政府の金大中氏抹殺陰謀を糾弾した後、@日本政府は金大中氏の釈放を即時要求せよA政治決着を撤回せよB日本政府は金大中氏の原状回復を図れ――と決議し、この内容を盛り込んだ十一万人の請願書を携えて日本国会まで請願デモを断行し、受け取らせた。

 「一一・八緊急集会」のわずか五日後の十三日、再び「金大中氏救出日本連絡会議」の主催で東京・日比谷野外音楽堂で六千人が参加するなか、「死刑判決抗議!金大中氏を殺すな!一一・一三国民大会」が開かれた。

 裴東湖・韓民統常任顧問は連帯辞を通して「全斗煥軍事政権は日本と米国の支援で成立した政権である。日本政府が、韓民統・韓民連代表らの国連要請と社会主義インター会議に参加するために申請した再入国許可を発給しないのは、金大中氏抹殺に加担している犯罪的行為を自ら暴露したものだ」と糾弾した。裴東湖顧問の連帯辞は大会雰囲気を大きく高揚させた。

 

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(11)

 決死のハンストで死刑を阻止

 韓民統は年末年始も闘い、金大中氏に対する死刑を阻止した

 二審判決で金大中氏に再び死刑判決が言い渡されると、韓民統と救出委の幹部らは、二審判決当日の十一月三日から東京の中心にある数寄屋橋公園で、「金大中氏への死刑阻止!決死無期限ハンスト闘争」に突入した。

 この無期限ハンストが続けられる間、国会議員をはじめ日本の各政党、労組、市民団体代表らが連日、ハンスト現場を訪問し、韓民統とともに闘っていくという決意を表明してハンスト団を激励した。われわれには年末年始もなかった。休む間もなく闘うのが、韓民統メンバーの日課だった。これは、それほど金大中氏救出に対する韓民統の意志が強かったということを意味する。

 韓民統は年末が迫っているにもかかわらず、多くの仕事を後回しにして、十二月十九日に韓日共同行動を行い、そこで採択した要請書を日本外務省と駐日米国大使館を訪問して担当者に直接伝達した。二十五日には都内の日本教育会館で約八百人が集い、「金大中氏への死刑判決阻止!韓日共同集会」を開催、二十九日には東京・桧町公園で「金大中氏を殺させるな!韓日共同集会」を開き、集会後には日本外務省への抗議活動を連続的に展開した。

 こうした闘争の中で年が明け、新年の八一年が訪れた。

 韓民統と救出委は、高度の緊張感を堅持しながら八一年を迎えた。この年の一月二十三日に、金大中氏らに対する大法院の最終判決が予定されていたためだ。

 ついにその日が来た。大法院判決は予測したように、軍法会議の一審、二審の死刑言い渡しを確定づける儀式にすぎなかった。全斗煥一党は大法院の判決直後、金大中氏の死刑から無期への減刑措置を発表した。これは内外世論を鎮火させるための術策であった。

 こうした政治劇に対して、全国民と世界の良心的人々は一層怒りを爆発させた。

 韓民統と救出委は当日(一月二十三日)、すぐさま声明を通して、大法院の不当判決と、国民と国際世論を愚ろうする全斗煥一党の減刑措置の政治劇を辛らつに批判し、金大中氏らすべての関連者を無条件釈放することを要求した。同時に、駐日韓国大使館に波状的た抗議デモを繰り広げた。デモ隊は大使館の要請で出動した日本警察隊と衝突、多くの人々が傷ついた。

 全斗煥一党を公式に支持した米日両政府を厳しく糾弾

 さらに、クーデターで政権を奪った全斗煥一党を公式に承認し、継続して庇(ひ)護する米日両政府を強く糾弾し、対韓政策を速やかに転換することを求めた。

 一月二十八日、全斗煥は内外の反対と糾弾のなかで、レーガン米大統領の招請を受けて米国を公式訪問することになった。全斗煥とレーガンの会談を通して、レーガンは全斗煥一党に対する全幅の支持とともに、経済・軍事援助を大幅に増加することを約束する。

 当時、全斗煥・レーガン会談を評して、救出運動関係者が次のように述べたことを今でも印象に残っている。

 「全斗煥・レーガン会談は、野戦軍司令官が『敵軍』討伐戦の戦果を最高司令官に誇らしく報告し、最高司令官は野戦軍司令官の功労をほめたたえながら、彼に最大級の表彰を与えた会談だったと言える」

 光州市民に対する許し難い虐殺蛮行をほめたのであり、全斗煥・レーガン会談で全斗煥に対する支持と信任を公式に表明した米国政府の帝国主義的政策は、それからわずかの期間で、韓国を反米の無風地帯から反米の熱風地帯に変化させることになる。

 韓米日の政治動向を常に注視していた韓民統は二月二十一、二十二日の両日、第九回中央委員会を開き、金大中氏の釈放とともに、反全斗煥・反外勢闘争をなお一層強化することを決定し、そのための実践的対策なども策定した。その対策の一つとして、韓民統は反全斗煥国際連合を構築することを内外に訴えた。

 二回目の「世界大会」を開き、全斗煥の光州市民虐殺を世界中に暴露した

 これに基づいて、光州民衆抗争一周年を迎えて、韓民統は日本の良心的人々とともに「韓国民主化支援緊急世界大会」を開くことにした。

 世界大会は五月十六―十九日まで、東京の社会文化会館で開催された(実行委員会共同代表・裴東湖、青地晨、宇都宮徳馬、槙枝元文 共同事務局長・郭東儀、小田実)。世界大会には二十七か国と三つの国際機構から著名人五十九人と、韓民統のメンバーら合わせて千六百人が参加した。

 裴東湖先生(韓民統常任顧問)と鄭在俊先生(韓民統副議長兼救出委員長)は、それぞれ全体会議と分科委員会の基調報告で、軍事独裁の暴力をはねのけて勇敢に闘う韓国民衆の反独裁民主化運動を詳細に紹介すると同時に、全斗煥一党が光州で引き起こした悪魔のような蛮行と、金大中氏らへの暗黒裁判の実態と執権以後の暴政の実態を暴露し、死をも辞さずに闘う韓国民衆の民主化闘争への支持と金大中氏らの釈放のため、各国の良心勢力が活動をより強化するよう訴えた。世界大会では裴東湖、鄭在俊先生の基調報告の内容を盛った「一九八一東京宣言」が発表された。

 この世界大会は、七六年に開かれた「韓国問題緊急国際会議」に続いて、二回目に開かれた大規模の国際会議であった。

 上記の会議と大会に対して、月刊「マル」誌の尹ジョンモ記者は九三年春に小田実氏を取材した記事で、次のように書いている。「金芝河のロータス賞をもらって帰って、しばらくして、彼は米国の一人の知人から電話を受けた。金大中氏が米国から日本に行く、何月何日、彼に会ってみろというものであった。ところが約束の二日前、金大中氏がら致された。(中略)その後、韓民統と良心勢力は頻繁に会談を持ち、朴正煕の蛮行を見過ごすことはできない、われわれも韓国政府を弾劾しなければならないとの声を高め、もう一度緊急世界大会を開こうということに意見が集まった。(中略)ご存じのように、韓民統の人たちは海外に行くことができない。それで、わたしは米国にも行って、ソ連にも行って、アルジェリアにも行くことになりました。何か、特使のようなものでした。ホホッ」(月刊「マル」九三年五月号・二百二十九号)。

 尹ジョンモ氏の記事は、次のように続けられていた。「一九八一年五月十六日から十九日の間、光州抗争に対する世界大会が大々的に開かれた。光州虐殺糾弾と追悼行事であった。初日は東京で、その次は大阪で順に開かれ、会議は分科会まで兼ねたすごい規模の大会であった。本当に韓国政府でもできないことを、日本の反体制と韓民統の同胞らが行ったのである(同誌二百三十一号)。

 世界大会の行事の一つに、パリに居住する東洋画の大家・李応魯先生の絵画展と、ベルリンに居住する世界的な音楽家・尹伊桑先生の「光州よ、永遠に」をテーマにした音楽祭も開かれた。

 この世界大会を契機に、韓国民主化運動支援と金大中先生釈放運動がさらに活発になっていった。韓民統は世界大会の成果を拡大させるための活動を多様に繰り広げた。このようななかで、ら致八周年を迎え、「韓日両政府による永久投獄糾弾!金大中氏の釈放を要求する八・八集会」が東京、横浜、名古屋、京都、大阪、四日市(三重県)など主要都市で一斉に開かれた。続いて八・一五光復節に際して、「全斗煥打倒!韓日外相会談反対!在日韓国人大会」が東京、横浜、大阪、京都の四大都市で開かれた。このように、韓民統は闘争に連続して立ち上がった。しかしこれは、決してたやすいことではなかった。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(12)

 SI総会などに代表を派遣

 「世界大会」に日本以外の二十七か国、三国際機構から代表五十九人が参加

 前回言及したが、八一年五月に光州民衆抗争一周年を迎えて東京で開かれた「韓国民主化支援緊急世界大会」に、海を越えて多くの外国の友人が参加した。この機会に、彼らの協力と労苦に再度感謝する意味から、ここに名前(当時)を紹介する。

 アメリカ=デイブ・デリンジャー(米州中央東部・正義と平和のための連合議長)、ティム・ショーロック(ジャーナリスト)、クワメ・トゥーレ(黒人解放運動家)、アレックス・デイビィセンティ(韓国民衆連帯委員長)、ニコラ・ガイガー(市民運動家)

 フランス=ダニエル・メイヤー(国際人権連盟委員長、社会主義インター名誉顧問、大統領政治顧問)、アラン・ブック(ル・モンド前東京支局長)、エドモンド・ジューブ(弁護士)、フェリックス・ガタリ(パリ大学教授)、ダニエ・ペティ(秘書)

 イギリス=デニス・カナブァン(イギリス労働党下院議員)、ギャバン・マコーマック(ラトゥルーブェ大学教授)、ジョン・ホリディー(学者)、デビッド・ボゲット(精華大学教授)

 ポルトガル=アルマンド・バセラー(ポルトガル社会党)

 ベルギー=ジョーレス・デリューブ(ベルギー社会党)

 オランダ=ハンス・トーレン(国際法律家協会事務局長)

 オーストリア=ハリー・シクロフスキー(ジャーナリスト)

 スウェーデン=ボー・グンナーソン(ジャーナリスト)

 スイス=ステファン・トレクセル(大学教授)

 パレスチナ=ファトヒ・アブドル・ハミード(パレスチナ東京事務所所長)

 香港=ジャック・クランシー(神父)

 タイ=ワリン・ワンハンチャオ(チュラリンコン大学教授)

 インドネシア=エルンスト・ユトレヒト(シドニー大学教授)

 シンガポール=タン・ワー・ピャオ(市民運動家)

 西ドイツ=アルフレッド・エマーリッヒ(西ドイツ社民党・国会法務委員会委員長)、ルイゼ・リンザー(作家)、ギュンター・フロイデンベルグ(オスナブルック大学前総長、韓独連帯委員会代表)

 チリ=アルマンド・ウリベ(前中国大使)

 メキシコ=フロイラン・M・ロペス(プロセソ編集部局長)、セシリンア・パラム(女性運動家)

 スペイン=ロベルト・ドラド(スペイン社会労働党書記局幹事)、マルガレーデ・カセレイン(市民運動家)

 イタリア=リリアナ・マグリーニ(ジャーナリスト)

 デンマーク=ジャック・ハーシュ(大学教授)、エレン・ブルン(経済学者)

 オーストラリア=ジョアン・タガート(オーストラリア社会党副党首)、イアン・ウィルソン(オーストラリア国立大学教授)

 インド=アジット・N・ボース(インド技術研究所教授)

 バングラデシュ=カビール・チョードリー(ダッカ大学教授、作家)

 スリランカ=K・ジャヤティラーケ(作家)

 パラオ=イグナシオ・アナスタシオ(国会議員)

 日本=飛鳥田一雄(社会党委員長)、宇都宮徳馬(参議院議員)、槙枝元文(日本労働組合総評議会議長)、田英夫(参議院議員)、青地晨(評論家)、小田実(作家)、隅谷三喜男(大学教授)、藤井治夫(軍事評論家)、野田哲(参議院議員)、秦豊(参議院議員)、遠藤洋一(福生市議)、梶村秀樹(神奈川大学教授)、森田宗一(弁護士)、真継伸彦(作家)、関寛治(東京大学教授)、伊藤成彦(中央大学教授)、篠田浩一郎(評論家)、武藤一羊(アジア太平洋資料センター代表)、北沢正雄(評論家)、小林弘一(パレスチナ連絡会議)、森詠(ジャーナリスト)、板垣雄三(東京大学教授)、梅林宏道(市民運動家)、隈元寅教(総評国民運動局長)、中江平次郎(総評大阪議長)、塩原節子(繊維労連)、前田由美子(日本婦人会議)、稲葉三千男(東京大学教授)、平良良松(那覇市長)、高橋悠治(音楽家)、宮原昭夫(作家)、森川金寿(弁護士)、河上民雄(衆議院議員)、富塚三夫(総評事務局長)、富山妙子(画家)、矢崎泰久(革新自由連合代表)、北尻得五郎(弁護士)、長洲一二(神奈川県知事)、吉松繁(牧師)、中山千夏(参議院議員)、青島幸男(参議院議員)、栗村和男(小牛田町長)、針生一郎(評論家)、森影誠(国鉄労組委員長)、八鍬重一(動力労組委員長)、丸山康雄(自治労委員長)、古井戸龍介(全逓労組委員長)、及川一夫(全電通委員長)、日教組、全水道労組、部落解放同盟などである。

 そして「世界大会」発起人のうち、外国の友人にはノーベル賞受賞者のジョージ・ウォード(米ハーバード大学教授)、リチャード・フォーク(米プリンストン大学教授)ら多くの著名人士がいた。困ったときに助けてくれる人が真の友人だとの言葉がある。あの厳酷な時代に、韓国民衆の正義の闘争に熱い心で賛同してくれた彼らを、われわれは永遠に忘れないだろう。

 SIの総会や幹事会に出席し、韓国の民主化闘争の現状を報告

 八一年の「金大中氏の釈放を要求する八・八集会」と「八・一五大会」の後にも、大衆集会と街頭デモ、駐日韓国公館と日本当局に対する抗議行動は中断なく続いた。例えば、全斗煥軍事独裁政権を政治、経済的に支援するために開かれた韓日閣僚会談(九月十、十一日)に反対、糾弾し、金大中氏の釈放を要求する集会を東京では九月六日と九日に、大阪では国鉄大阪駅前広場で五日から座り込み闘争と街頭宣伝、大阪総領事館への抗議デモを展開し、全泰一烈士の十一周忌を迎えた十一月十三日にも集会などを行った。

 一方、韓民統は国際社会で金大中氏救出の世論を高めるために、韓民統の国際組織ともいえる民主民族統一韓国人連合(韓民連)を発動し、世界の主要な国での国際会議や国際シンポジウムなどの開催に尽力した。そのような成果として、韓民連とフランス国際人権委員会の共同主催で八二年六月十九、二十日の両日、パリで「金大中氏とその多くの人々」をテーマに「韓国人権国際会議」を開いた。会議には韓民連代表をはじめフランス、日本、西ドイツ、アメリカ、イタリア、イギリス、スペイン、サンマリノ、スイスなど九か国から六十余人が参加した。

 また韓民統と韓民連は八〇年から社会主義インター(SI)の総会と幹事会にすべて出席した。八〇年六月十三―十六日にわたってノルウェーのオスロで開かれたSI幹事会には裴東湖・韓民連中央執行委員長(韓民統常任顧問)と尹伊桑・韓民連ヨーロッパ本部議長ら六人が参加した。同幹事会では韓民連代表が韓国情勢の報告を行い、韓民統、韓民連との連帯意志の表示として「韓国問題に関する特別決議文」を採択した。特別決議文の内容は次のようなものだった。

 「韓国での弾圧は極限点に達している。社会主義インターは、平和的に抗拒する学生らに加えられる野獣的な蛮行に対して深い憂慮を表す。社会主義インターは、在野指導者である金大中氏の釈放を強く要求し、民主化闘争を積極的に繰り広げている海外韓国人団体の民主民族統一韓国人連合の闘争を積極的に支持する。反共を口実にした民主主義の抑圧を、社会主義インターの会員国は絶対に受け入れることができない」

 (つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(13)

 韓民統がSI総会に招請される

 韓民統、韓民連の外交活動で、世界各国から死刑阻止・釈放要求の声が上がる

 ノルウェーのオスロで開かれた社会主義インター(SI)幹事会で、「韓国問題に関する特別決議」が採択され、ヨーロッパを中心とするSI加盟の各国政府と政党、社会団体は、崔圭夏政権への書簡送付や声明発表を通して、金大中氏に対する死刑宣告の不当性を辛らつに批判する一方、金大中氏の釈放を強く要求した。韓民統、韓民連の精力的な活動で、ヨーロッパなど世界各地で「金大中氏を釈放せよ」という世論が一層高まっていった。

 これはオスロのSI幹事会の後、七月八日に西ドイツ政府のゲンシャー外相が駐西ドイツ韓国大使を外務省に呼び出し、金大中氏をはじめ野党人士らの政治活動を禁止している状況に重大な関心をもって見守っている、との要望書を伝達したことや、二日後の十日には西ドイツとフランスの外相が西ドイツのボンで会談し、EC加盟国に金大中氏の拘束問題で共同歩調をとるよう要請することに合意したこと、また同じ日に西ベルリンで「韓独親善会」主催による一千人の集会が開かれ、光州市民への虐殺蛮行を糾弾し金大中氏の釈放を要求したこと、さらには同日に北欧四か国が、二十二日にはEC外相理事会が、それぞれ民主化運動弾圧と金大中氏ら民主人士の拘束に遺憾の意を表す決議文を採択したこと、などの事実を見れば明らかだ。

 韓民統、韓民連の対外活動によって、金大中氏の釈放を要求する世論が世界的範囲で一層拡大する情勢のなか、十一月十三日から十六日までスペインのマドリードでSI第十五回総会が開催された。韓民連は再び招請を受けた。しかし、韓民統、韓民連の対外活動を妨害しようとする韓日両政府の策動によって、韓民連中央本部(日本)の参加予定者(韓民統幹部)は日本政府の再入国許可を受けることができず、参加できなかった。代わりに、米国本部の議長であり首席議長である林昌栄・前国連大使とヨーロッパ本部の尹伊桑議長、林民植国際局長、鄭成培ヨーロッパ本部事務局長ら六人で構成する代表団が参加した。

 代表団を代表して、林昌栄首席議長が韓国情勢について報告した。林首席議長は演説で「SIやSI加盟国など、広範な世界の良心勢力の度重なる警告と抗議にもかかわらず、全斗煥一党が韓国民衆の民主化運動を一層悪らつに弾圧し、金大中氏らに対する殺人裁判を継続している。この事実を断罪し、中止させるために、全斗煥一党に実効性ある圧力を加えていくことの必要性」を強調、総会参加者から熱誠的な呼応を受けて決議文が採択された。決議文の内容は次のとおりだ。

 「われわれは最近の韓国事態の進展に対して再び強い憤りを表明し、自由と民主社会の建設のために闘争している韓国の民主勢力を継続して支援することを誓う。われわれは南韓当局に対して、金大中氏に下した死刑判決を即時撤回することを強く求める」

 参考までにつけ加えれば、SI第十五回総会には世界六十一か国の政党や団体代表五百余人が参加し、国際会議としても極めて規模の大きな会議であったため、それだけ波及効果も大きかった。

 同じ時期の十一月十三日、前述したように、日本では金大中氏に再び死刑判決を言い渡した控訴審判決に抗議する「十一・一三国民大会」が韓民統も参加するなかで七千人規模で開かれ、死刑判決の取り消しと金大中氏ら民主人士の釈放を要求する決議文を採択し、韓日両政府に伝達した。世界のいたる所で高まる抗議の声におびえた全斗煥は、年内に終えようとしていた大法院(最高裁)判決を遅らさざるをえなくなった。

 緊張した情勢のもとで、八一年に入ると、全斗煥一党は金大中氏への死刑判決の維持が困難だと判断、一月二十三日に大法院の判決公判でいったん死刑判決を出した直後、無期に減刑する措置を取った。これは、救出運動の前に全斗煥一党が事実上、屈服したことを意味するものであった。だが、韓民統は引き続き緊張した態勢を堅持し、完全釈放のための闘争を多様に繰り広げた。すでに紹介したが、二月一日から駐日大使館に波状デモを行ったのをはじめ、光州民衆抗争一周年を迎えて「韓国民主化支援緊急世界大会」の開催、ら致八周年に際して日本各地で開いた大衆集会、九月に入り、全斗煥独裁への政治・経済的支援の表れである韓日閣僚会議の開催反対闘争など、その闘いは枚挙にいとまがない。

(つづく)

連載   金大中氏救出運動と韓統連(14)

 金大中氏への抹殺陰謀阻止

 全斗煥一党の金大中氏抹殺陰謀は失敗し、金氏を米国に追放せざるをえなくなった

 このように釈放闘争が粘り強く継続されるなかで、全斗煥一党は八二年十二月十六日、金大中氏を清州矯導所からソウル大学付属病院にいったん移した後、同二十三日に米国に追放する。この追放措置は、実際には釈放にほかならないものだ。八〇年五月十七日に拘束されて以来、二年半にわたって「内乱陰謀主導」「反国家団体の構成と首謀者」の「罪名」で、軍法会議という通過儀式を経て金大中氏を抹殺しようとした全斗煥一党の殺人陰謀は、内外の強い世論攻勢で粉々にくだけ、金大中氏は地獄から生還した。

 金大中氏が米国で追放生活を送っていたとき、韓民統は彼を慰労するためにぺ・東湖常任顧問を派遣した。金鍾忠国際局長が随員として同行した。両者の出会いは八四年五月十五日、金大中氏のボストンの仮の自宅であった。

 韓民統は金大中氏に対する慰労団の派遣を最後に金大中氏救出運動を終結し、すべての力を反独裁民主化闘争に集中していった。

 以上が、七三年八月のら致以来、二回にわたって韓民統が繰り広げた金大中氏救出運動の概要である。振り返ってみれば、韓民統は十年近くにわたって、金大中氏救出のためにすべてのものを惜しみなくささげた。その道のりは言葉では言い表せない困難な道であった。救出運動をひと言で言えば、「悪鬼」のような軍事ファッショと、人道と民主主義を愛する勢力間のし烈な闘争であった。

  朴独裁政権は「金大中氏救出運動」「民主化闘争」を理由に、韓民統を「反国家団体」に規定

 この闘争でわれわれは勝利したが、韓民統も少なからぬ被害を被った。韓民統が被った被害の中で、もっとも大きい被害は「反国家団体」のぬれぎぬを着せられたことである。朴正煕軍事独裁は金大中氏をら致することにいったんは成功したが、その犯行が直後に韓民統によって暴露され、水葬直前に殺害を中止せざるをえなくなったのだ。

 ある者は、金大中氏を救ったのは日本と米国だという。これは事実を甚だしくわい曲した正しくない言葉である。われわれの立場から見れば、日本と米国は金大中氏抹殺陰謀の「共犯者」であり、決して彼を救った「救援者」ではなかった。当時の状況から見れば、米国は金大中氏の人権と生命より、東北アジアで冷戦の最前線の番人である朴正煕政権と全斗煥一党の安保がより重要だったのである。これに対して、金大中氏は次のように述べた事実がある。

 「なぜ、アジアでは独裁がはびこるのか。なぜ民主主義が発展できないのか。(中略)もっとも大きな責任は米国にあります。最初に、われわれは米国を『民主主義の使徒』『民主主義の天使』あるいは『メッカ』と考えました。しかし、米国がアジアに来て何をしましたか。彼らは、民主主義の守護だという名分で『反共』を叫びさえすれば、どのような独裁者にもカネを与えて援護してきました。アジアの独裁者は『反共』だけ叫べば、民主主義をどれほど弾圧しても心配はありませんでした」(「金大中拉致事件の全貌」九十六―九十七ページ。緑豆総書)

 金大中氏はまた、米国で追放生活を送っているときの八三年一月十五日、釜山米文化センター事件関連者の金鉉奨、文富軾氏らの救援集会での演説で、「米国が少数の軍事独裁者をかばって、韓国民の期待に背いていることに対して彼らの失望と怒りを理解する」と述べ、米国の対韓政策を痛烈に批判した。

 朴正煕独裁政権が韓民統を「反国家」に規定したのは、第一に、金大中氏の暗殺計画が水葬直前まで進みながら、韓民統がら致直後に韓国中央情報部(KCIA)の犯行だと断定して、救出運動を大々的に繰り広げたために、恥だけかいてあきらめざるをえなかったことに対する報復であり、第二に、反独裁民主化闘争のたいまつを絶えず高く掲げ、彼らに脅威を与えたことに対する政治的な復しゅうだった。

 隷属と分断体制の永続化を主張し、国民が汗水たらして作った国宝を盗む不正腐敗を庇(ひ)護したのならともかく、韓民統の活動は自主と統一、民主と正義を主張して実践する愛国として評価を受けることであり、どうして「反国家行為」になるというのか。これは、明らかに愛国に対する売国の横暴であり、これに歴史的審判を下さなければならない。

 あれから二十数年の歳月が流れた。その間、残忍な軍事独裁時代は終わりを告げ、「文民時代」を経て、いまは「国民の政府」が発足して「改革」を叫んでいる時代である。しかし、韓統連がいまだに「反国家団体」として残っている現実は、だれにも納得できないことである。われわれは、金大中大統領の良識を疑わざるをえない。

 間違った過去を清算し、理に反した歴史をただすのが改革ではないのか。歴史の立て直しを回避する政権には未来がないとの教訓を、金大中政権は深く吟味しなければならない。この連載を終わりながら、われわれは金大中大統領に、韓民統への「反国家」のぬれぎぬを晴らしてくれるよう強く主張する。

(おわり)